泣き虫アンナ 作 佐伯大輔 「話がよくわからへんねんけど」 「なんで」 「なんでって、わかるやん。いきなり言われてもわからんよ」 「日本語が?」 「日本語は、わかる。そういうことやないやん。意味がわからへんねん」 「日本語の意味が?」 「それはわかる。地縛霊が何かは」 「じゃあ、話は終わりやん」  ぼくは頭を掻いた。なぜだ。せっかくの一人暮らしの始まり。大学院に進学して一年目の夏休み。一人暮らしをするには最適な時期。これからは、親に縛られず生活できるのだ。それが。 「なんで、俺の部屋に地縛霊がおんねん」 「あんたの部屋じゃなくて、和樹の部屋に縛られてるんですけど」  和樹は、ぼくの友人でこの部屋を譲ってくれたのだった。 「それは昔のことやん。ここはもう俺の部屋やねん」 「私が死んだのは、和樹がこの部屋の持ち主だった時やし」 「で?」 「え〜、あんたにとっては残念。みたいな」 「和樹に未練があるなら、あいつに憑けよ」 「だから、地縛霊なんだって」  白くて透明な手が差し出された。手の上から床のフローリングが見える。 「これは」 「私は、アンナ。よろしく」  つい手を出してしまった。握手をする。やわらかくてあたたかい。そんな気がした。  彼女の名は、アンナ。彼女の話では、和樹の友達以上恋人未満的存在だったということだ。デートの待ち合わせの最中、熱中症で倒れて目を開けたら、自分は死んで幽霊になっていたらしい。たった一つの和樹との思い出がこの部屋に上げてもらったこと。だから、この部屋の地縛霊になった。もちろん、やましいことはしていないと彼女は念を押した。この世の未練から地縛霊になった。なのに、家主は変わったのだ。ぼくに。かわいそうだということはわかる。でも、ぼくだってかわいそうだ。 「もう一つ聞いていい?」 「何」 「さっきから、この部屋をちょろちょろしてるやつ」 「ああ、あの白いウサギ」 「横の壁を垂直に走ったり、今、完全に天井で静止してるよね」  14インチのテレビくらいの白いウサギが天井に逆さまに座りながら、口をもぞもぞと動かしている。 「何が聞きたいの」 「君の関係者?」 「アンナでいいって。私も下の名前で呼ぶし」  ぼくは少し間を置いた。そうすれば会ってばっかりの女性を名前で呼ぶことを許される気がした。単純に恥ずかしいからとも言う。 「アンナの関係者なん。あのウサギ」  アンナがウサギを見上げる。つい、その横顔を見てしまった。可愛かった。残念でならない。死んでいなければ。それに、アンナはいつまでここにいるんだろう。そんなことを考えてしまった。 「いてん」 「は?」 「私がこの部屋に来る途中にさぁ、おってん。で、連れて来た」  いやいやいやいや、待って。地縛霊は、死んでから自分で未練のある場所に移動するのか。その途中で、そんな軽いノリで動物霊を連れて来れるのか。まず、なぜ連れて来たのか。いくつか心の中でつっこんでみるが、本当のところは、ぼくにはわからない。 「あいつな、浮遊霊やってん。なんかかわいそうな体してたし、連れてきた」 「かわいそうな目とかじゃなくて」 「何それ。だって、あいつデブやん」  ずいぶんな言い方だ。でも、そのまるまると太った体のおかげでウサギには、なんとも言えない愛嬌があった。 「名前はあるん」 「容疑者ウサギ」 「それ名前なんや」 「あえてな」  何があえてなのか全然わからなかった。太っていると、人間なら人が良さそうに見える。このウサギの場合は優しそうで少し間抜けに見える。そんな印象とギャップのある容疑者という名前が、不思議にあっている気がした。 「でも、容疑者ウサギって、呼ぶには少し長いな」 「そうやね。だから、私は容疑者って呼んでる。おいで、容疑者」  ふわっと、容疑者ウサギが降りてくる。空中で一回転して、アンナの膝へ降りてきた。そんな不思議な光景をしばらく眺めていた。  自分が連れてきた浮遊霊を容疑者というアンナ。そのアンナは、和樹のせいで地縛霊になっていた。そのアンナになついている容疑者ウサギ。ウサギは、白くてまるまるとしていた。この一人と一匹は、この世には既に存在していないのだ。  一人暮らしだったのに、初日にして二人と一匹になってしまった。なんとかできないのだろうか。なんとかできたのかもしれない。でも、ぼくは静かに笑いながら、アンナと容疑者ウサギを見ていた。 「あ」  ぼくは、あることを思い出した。いきなり修羅場だ。幽霊が出たなんて本当だったとしても通じるはずがない。 「どうしたん」 「和樹が来る」 「え」 「和樹が来るねん」  アンナは顔を下に向け、何かを考えているようだった。ウサギの鼻をぐりぐりいじまわしている。容疑者は前足をばたばたしているが、体が邪魔してアンナのいたずらをうまく阻止できない。何度も言うが彼らは幽霊だ。 「いいんちゃう」 「え」 「私、地縛霊やし。どうせ、動けへんし」  今度は容疑者の両方の口の端を持って思いっきり伸ばしている。未だかつてあんな顔をしたウサギを見たことはなかった。アンナの心は傷ついているのだろうか。なんだか変な気分だった。幽霊の心の心配をしているぼくはおかしいのかもしれない。  和樹が来るまであと10分ほどだった。何を言えばいいのか僕はわからなかった。大学院で学ぶことはこういう時に何も役に立たない。 「何」  ぼくは、ずっとアンナを見ていたようだった。慌てて視線をはずす。調子が狂う。そんなに多いわけではないが、ぼくにも彼女はいた。女の人と付き合ったことはある。なのに、どうしてだろう。アンナの前ではうまく立ち回ることができない。彼女が幽霊だからだろうか。 ピンポーン  チャイムなんて鳴らなければいいのに。ぼくは正直そう思ってた。 「来たよ」  そんなことはわかってる。アンナは、動こうとしないぼくに動けと言っているのだ。そのこともわかっていた。膝に両手をついてなんとか立つことに成功する。  ピンポーン  和樹が悪いわけではないが、少しだけ腹が立つ。ドアまであと二歩だった。ドアのノブを回そうと右手をあげた。手が湿っている。汗を掻いていた。ぼくは和樹よりアンナのほうに好かれたいようだ。鍵を開け、ドアノブを回す。 「めっちゃ、やばいで」  やばい。何が。良い時も悪い時も使える便利な言葉だ。なんでもない時はなんでもない言葉だが、なんでもなくない時は気になる言葉。ぼくは、和樹にいらいらしていたのだ。 「めっちゃ、外暑いし。中入るで」  和樹が部屋に入ってくる。なかには、アンナがおるねん。と言いかけて、アンナと目が合う。何も言うなという目。  最近まで自分の部屋だったことが信じられないのだろう。きょろきょろ部屋の中を和樹は見ている。その和樹の様子を、アンナはじっと見ていた。和樹が座る。テーブルをはさんでアンナの真正面。気まずい。 「何してんねん。玄関でボーっと立って」  その声で慌てて部屋に入る。アンナを意識して、和樹の隣に座ろうとする。 「いやいやいやいや、ないやろ。え、新しい可能性に気づいたん」 「ちゃうわ」 「でも、初めての男が春政なら、ええよ」 もじもじするな。 「心に麻酔うっとくから」 「しばくぞ」  必死で焦っているのを気づかれないようにする。焦っていることがばれても、アンナが幽霊になってこの部屋にいるなんてわからないだろうけど。腰を屈めたまま、アンナの横に座る。気まずい。 「で、今日は何の用?」 「ああ、ごめんな。忙しいのに。いや、なんか不都合なことなかったかなっと思って。俺がこの部屋におった時はなんもなかってんけど」  和樹はこういうやつだ。髪は金髪だけど。 「一人暮らしはじめてやろ。住みにくいことないと思うねんけど、何かあったら言ってや。それから、別にあれやで。俺から引き継いだからって、無理してここに住むことないしな。嫌になったら、いつでも引っ越したらいいし」 「それを言いに来たん」 「大事やしな」  和樹は、色々だらしない。女には特に。年に10回は運命の人に出会う。運命の人と付き合っているはずなのに、別の運命の人があらわれたりする。和樹が住んでいたころのこの部屋も大変だった。絶対、和樹は女を自分の部屋には呼ばない。男の一人暮らしにありがちな散らかった部屋。しかし、それだけではない。和樹の部屋に入ると、誰でも咳が止まらなくなるのだ。和樹だけは平気。くさいを通り越して部屋は無臭。が、咳は出る。何回か出入りしていたぼくは、寿命が何日か縮んでいるかもしれない。そんな和樹は、友達は大事にしている。金にもかなりルーズだが、友達に借りた金は絶対忘れないし、次の給料日で必ず返す。  ダメな所なんてみんな持っている。だから、和樹はぼくにとっていいやつなんだと思う。腹が立ったり、見なおしたり。ぼくは勝手なやつだ。 「で、何か不便なことあった?」 「いや、今んとこないわ。まあ、住み始めたばっかりやからまだわからんけど」  アンナと容疑者のことは言えなかった。 「そら、そうやな」  和樹がアンナの方を見る。アンナが和樹を見る。目が合う。昔のマンガに心臓がハート型になって飛び出るやつがあった。ぼくの心臓はちょうどそんな感じだ。あともう一回脈うったら、飛び出る。本気でそう思った。 「春政」 「え」  えって言う前に小さい「ひ」がついてしまった。容疑者が笑うセールマンの顔になった。アンナが力いっぱい容疑者の顔を横に引っ張っている。ぼくのせいだ。心の中で容疑者に謝る。 「何か飲み物ある。外めっちゃ暑くてさ」 「ああ。今、出すわ」  冷蔵庫にあるウーロン茶を出そうと立ち上がる。冷蔵庫に近づくと、和樹が背中に声をかける。 「まだ、彼女つくらへんの」  和樹は、ぼくが一年くらい彼女をつくらないことを心配していた。女がいなくては人生はつまらない。和樹の持論。おっさんか、お前は。 「いなくても、それなりに楽しいから」  半分は本当。残りは嘘。ほしくないわけじゃない。でも、和樹のように自分に自信が持てない。いつも考えてしまう。ぼくと付き合うことに、いいことなんてあるのだろうか。  テーブルに透明なコップを二つ置き、ウーロン茶をそそぐ。 「引きずってるん?加奈ちゃん、やっけ」  アンナが顔を向ける。 「ううん。そんなことないよ。そこやないねん」  アンナの方に顔を向けないように注意しながら答えた。なぜか、アンナには知られたくなかった。 「自分は?」  話を長引かせないために、和樹に聞き返した。「あ」アンナの声がかすかに聞こえた。横を向く。アンナの黒い目。不安でより黒くなったようだった。後悔。後悔は襲ってくるものだと、その時わかった。 「この前な、女と待ち合わせしとってん。アンナって名前でな。めっちゃかわいい名前やろ。うん、かわいかった。でもな、おらんかってん。俺、暗くなるまで待ってんで。初めてや、女のために待ってたん。来てくれへんて、わかってて待ってたん」 「めずらしく本気やったんや」 「いつでも本気やって、俺」  よかったやん。そう思って、アンナを見た。俯いている。両想いだったのに自分はもうこの世にいない。そうか。ぼくはバカだ。どうしてぼくはこの部屋にいるんだろう。そんなことを考えた。 「凹みすぎやろ。なんで、お前がそんな顔すんねん」 「ごめん」  和樹にはひどく落ち込んだ顔に見えたのだろう。 「謝らんでええよ。ありがとう。やっぱ、ええやつやな」  今、この部屋にいる三人と一匹の中でぼくが一番嫌な奴だなと思った。和樹もアンナもいい奴だから、二人にいい顔をしたいって考えたから。 「ほんまはその話がしたかったん?」  和樹がぼくに女のことを話すのは珍しい。口調はけっこう真剣だったから尚更だ。 「わかる?」 「まぁ」 「ええ女やった。あ、過去形にしてるけどなんもしてへんで」  和樹は少し笑った。 「煙草吸ってええ?」 「うん。あ、でも、灰皿ないわ」 「持ってる」  携帯灰皿を取り出す。高校から使っているやつ。昔、真田広之がポイ捨てをやめようというCMに出ていて、それに影響されたらしい。ライターで火をつけ、口に咥える。一回煙を吐くと続けた。 「ま、どんだけ粘っても付き合えへんかったやろうけど」  意外な言葉だった。 「和樹でもそういうことあるんや」 「まあな。俺もあほちゃうから。なんとなくわかるやん、あ、こいつやったら落とせるとか。はじめから無理なやつとか狙わへんし」 「でも、今回は違ったんや」  なんとなくわかる自分が落とせそうな女の定義。職業は何かよくわからないのに、ゴージャス姉妹としてテレビに出まくっている女の人が身につけているアクセサリーぐらいぼくには手が届かないものだ。 「そう。春政、覚えてる?」 「いきなりやな。何の話?」 「俺、昔、お前に負けたやん、女で。俺があいつ好きやねんって、お前に打ち明けたら実はお前が付き合ってたってやつ」 「高一の時の?あれは、付き合ってるんをみんなに黙ってたから、さぐりを入れたんやろ?」 「それ言い訳。真剣やったから、かっこ悪くてな」  和樹とは高校以来の友達だった。男子高校生はだいたい三つのグループに分かれる。一つ目は今で言うなら、オタク系。コンピューターに強い、もしくは眼鏡をかけて頭がいい、それだけで高校ではオタクになる。さすが、高等学校。偏見万歳。それから、普通系。部活を一生懸命やってたりするのが、当てはまる。ザ・高校生って感じだろうか。そして、遊び人系。悔しいので遊び人系と名付ける。実際は、顔もいいし、しゃべりもうまいから自然にもてるというグループ。要は先天性の顔がかっこいい方の集まり。無理に遊ぼうとしなくても、女の方から寄ってくる。もちろん、そのグループの中にも例外はいるが。  だいたいこの三つで、グループが形成される。不思議なものだ。グループを作ろうとしているわけではない。ただ自然にできるのだ。同じ匂いがするというのか。どんなクラスでも、5月の中旬くらいにはこの三つのグループが出来上がっていた。グループ間の仲は悪くない。陰口を叩くこともない。けれど、親しくなることもない。 和樹は珍しいタイプだった。和樹をグループ分けすれば、遊び人系になる。でも、和樹はこの三つのグループを渡り歩いていた。どのグループとも仲良くなっていた。だから、ぼくと今も付き合いが続いている。 「和樹が付き合ってきた人と全然タイプ違うやん」 「真面目そうな子やったしな」 「好きなタイプはギャルとちゃうん?」 「ギャルて。俺、でも、けっこういろんなタイプと付き合ってるやろ」  言われてみれば、そうだった。和樹の付き合う基準はいいやつかどうか。それは、男も女も一緒。自分を持ってるとはこういうことかもしれない。 「それで、どうしたいん、和樹は。そんな相談して」 「いや、どうしたいとかじゃないねんけど。なあ、春政」 「何?」 「お前、自分に自信持てよ」  ぼくは和樹の目を覗きこんだ。和樹がどうしてそんなことを言うのか。さすがに心の中までわからない。 「自分が思てる以上に、お前は人から思われてるで」 「え」 「これ真面目な話な。俺、アホやけど、そいつがいい奴かどうかはわかるから」  もう少し、詳しい話が聞きたかったが、ぼくがアンナの様子を気にしている間に和樹の近況報告に話は変わっていった。別れた女が妊娠したと思って焦ったこと。もうすぐしたら、仕事で一か月ほど九州に行くこと。向こうの風俗街が楽しみだということ。  一時間ほどだらだらと話をした。昔の思い出。ぼくの大学院の話。最後に、お互い頑張らなあかんな、という高校時代からの伝統的な締めくくりで話を終わらせた。 和樹が帰ると、アンナと容疑者を見る。容疑者はアンナから解放されていた。容疑者は前足で自分の顔をむにむにと触っている。アンナによって顔の形が変わったと思っているのだろう。 「ええ人やな」  アンナから口を開いた。 「なぁ、アンナ」 「何」 「アンナが、和樹を狙ってたんとちゃうん?けど、今の話やったら、逆やん」 「それ」  いきなりアンナは容疑者をつかんでこちらに投げてくる。腕を振り下ろすスピードに似合わず、ゆっくりと容疑者はこちらに向かって飛んでくる。飛んでくる間中、容疑者はずっとぼくの目を見ていた。  ぴとっ。そんなマンガみたいな音が聞こえそうだ。容疑者はぼくの頭を抱きかかえるように張り付いている。実際はそんなことはないが、息が詰まりそうになる。  容疑者はそのままぼくの顔を蹴って、全然痛くはないが気分は悪い、玄関のほうに飛んで行った。 「最初に言ったやん。和樹との唯一の思い出がこの部屋に来たことやって。でも、あいつは女を自分の部屋に呼ぶことなんてなかった。呼べるような部屋じゃなかったし」  そこまで言って黙った。アンナも黙る。容疑者だけがそこらじゅうを飛び回っていた。無重力アトラクションか、ここは。アンナは、嘘をついている。でも、それを聞き出してぼくはどうしたいのだろう。そう思ったら、どうでもよくなった。  ぼくは勝手なストーリーを作っていた。女好きの和樹がアンナを待ちぼうけにさせた。その時にアンナは死んでしまった。和樹を恨んでいる地縛霊アンナ。何も知らずにやってきた和樹にその憎悪が襲いかかる。そんな訳なかった。 「わがままやねんけど」  アンナが遠慮がちにぼくを見てくる。 「しばらくここにおってもいい?」 「そやから、地縛霊なんやろ」 「うん」  アンナが俯く。泣いているようだった。修羅場にはならなかった。それでいいだろう。ぼくはそう自分に言い聞かせた。容疑者が短い前足と後ろ足を伸ばして、蛇のように体をくねらせながら部屋の中を飛んでいる。なんなんだ?この白豚ウサギは。  朝。声が聞こえる。今日は日曜日。寝てていいはず。 「何やねん」  仕方がない。起きる。白い顔。 「うわっ」  白い顔がどけられて、アンナの顔が見える。時計を見た。七時。 「もうちょい寝かせてえや」  昨日、和樹が帰った後、まだ整理できていない荷物を整理した。やっと、自分の部屋になった。そう思った。 「もう、七時やで。若い男が日曜日にいつまでも寝てていいん?」 「幽霊が爽やかな朝に見えててええんか」 「星かって昼間は太陽の光で見えへんだけで、常に空にはあるねんで」  だから、なんで見えてるねん、って言いたかった。昨日も見えていたのだから、当然か。日曜日にこんなに早く起きてもやることはない。引っ越しをするので、バイトは辞めていた。 「今は、プー状態や」  ベッドに座る。寝起きに元気な幽霊。朝にはなかなかつらい。 「白髪ボオン」  突然、アンナが叫んだ。ないわ〜と言いながら、笑っている。 「は?」 「鏡見ぃや」  壁に掛っている鏡を見る。後頭部に容疑者がしがみついていた。容疑者に実態があったら、ぼくの首の骨は折れているだろう。しょうがないので、起きることにした。大学に行こう。教授から言われている仕事がある。金にはならないが。  どこの一人暮らしの部屋もだいたいそうだが、ぼくの部屋もユニットバスタイプ。ドアは開けっぱなしで入る。そこで、顔を洗う。ついでに手を洗って、コンタクトをはめる。ケースの中で4時間以上消毒したら、すすがず装着。最近、コンタクトの保存液の説明書を読んで知った。便利だ。得した気分。歯を磨く。百獣の王を会社名にしているやつで歯ブラシも歯磨き粉も揃えている。 「あの」  ぼくの声に反応しアンナが答える。 「何?」 「アンナじゃなくて、こいつ」  ずっと、後頭部にしがみついている容疑者を指差す。アンナからは見えないがわかるはずだ。 「こいつ、何してんの」  洗面台の鏡で見ると、可動式のデブウサギの帽子をかぶっているみたいだ。かわいらしい目で鏡越しに見つめてくるのが妙に腹立つ。 「呪い」  笑えないって。仕方ない。諦めながら、口を漱ぐ。ユニットバスの電気を消して出てくるとアンナが笑顔でベッドに座っている。 「どこに行くの?」  地縛霊なのに、なぜそんなに楽しそうなのだろうか。少しだけ考えた。アンナは、地縛霊なのでここから動けない。留守の間中、物色し放題。ぼくは一つ学習した。地縛霊との同棲はプライベートが完全にない。 「大学。教授に言われた仕事があるねん。そんな急ぎやないけど」 「こいつ、連れてってな。私、地縛霊やし」  地縛霊という部分を強調してアンナは言う。容疑者はまだぼくの頭で口をひくひく動かしていた。  大学に行くのに、電車を乗り継がなくていい。今のぼくにはそれが一番すばらしいことなのだ。しかし。 「いい眺めやなぁ」  肩に乗った容疑者がしゃべる。厳密には、アンナがしゃべっているのだけれど。アンナは地縛霊だからあの部屋から動けない。だから、容疑者にのりうつって移動するのだという。反則だ。今、部屋ではアンナの姿をした容疑者が部屋を飛び回っているだろう。帰宅する時は、ドアの前で30秒待てと言われた。アンナと容疑者が元に戻るまで。  だいたい意識の塊が幽霊ではないのか。いったい、どういう原理で入れ替わるのか。まあ、いいか。ぼくの肩にのっている容疑者は、まぎれもなくアンナなのだ。 「この坂をあがったら、山城教育大学があるん?」 「左に見えるわ」  山城教育大学の大学院にぼくは進学した。学部からの内部進学。入院ともいう。プーになるのは社会的に恥ずかしいけれど、大学卒業してすぐ社会人になるのは怖い。そんな心の病を持ったやつらが大学院に入るからそう呼ばれる。ぼくもその一人。もちろん、高い志を持って大学院に来る人はいるけど、その人たちも病んでるように見える。大学院に何か救いを求めているからだ。やっぱり入院。でも、入院は病を治すのが目的。悪くはない呼び方だと思う。  新興住宅街の中でその存在を完全に浮かせている。それが山城教育大学。戦時中の陸軍病院だったらしい。大学の横には小さな公園があるが、その中に不釣り合いなほどでかい碑がある。東南アジアのどこかの島で全滅した旧日本軍の連隊の碑。この近くには練兵所があったのだ。 「うちの大学、昔の陸軍病院やってんて。夜になったら出るねん」 「何が」 「兵隊の幽霊」 「ああ。私と一緒にいたら、ほんまに見られるかもしれへんで」  しまった。その可能性を全く考えていなかったことに気づく。大学院に入っても、ぼくの頭はこんなものだ。 「大学院の仕事ってどんなん?今日、日曜日やろ。しかも、夏休みやし」 「書庫の整理」 「そんなん金になるん?」 「ならへんねん」  肩の上の容疑者を横目で見る。容疑者の中のアンナに愚痴を言いたい。教授の顔が浮かぶ。ぼくの担当の教授は、背の低い退官を二年後に控えた先生だ。髪は真っ白で、顔は優しそう。だが、恐ろしく世間の常識からはずれている。名前は左藤先生。 「ほんならなんで引き受けるん、そんな仕事。春政は、めっちゃアホか、もしくはお人よしやな。っていうか、アホやな」  なぜ結論が出てるのに、orを使うのか。ぼくはアンナの指摘したアホさをさらに深めてやろうと、なぜこの仕事を引き受けることになったのかを説明した。  院生というのは、教授の助手とほぼ同義語である。教授の頼み事はほぼ断れない。教授と院生の間には、治外法権が適応される。こんなことがあった。教授から回ってくる仕事は担当の左藤先生からだけではない。他の教授からもいろいろ回ってくる。その仕事で、疲れた顔をしているぼくに左藤先生はこう言ってくれた。 「無理な時やしんどい時は仕事を断ったらいいから」  と笑顔で言いながら、左藤先生はぼくに新しい仕事を依頼した。もちろん、他の教授の仕事でへとへとになっているぼくは断わろうとした。 「悪いんですけど、もうこれ以上は・・・・」 「ううん。この仕事はやってほしいんです」  左藤先生の顔にぼくのパンチがめり込んでいる。そんな絵を想像した。自分以外の仕事は断っていいということだったらしい。 「ありえへん。よう通えるなぁ」  アンナは良い聞き役だ。一つ一つ反応してくれる。しかも、ぼくの味方。  それからぼくは、今回の仕事について説明した。ぼくの大学院の仕事は、ほとんどが書庫の整理と資料の整理。それから教授の研究会での講演を文字に直すこと。二時間くらいはある講演。録音テープを聞きながら、一言一言文字にしていく作業は地獄だった。今回は、夏休みを利用してぼくの学科の書庫を整理するのだ。 「なんで、お金でえへんの?」 「一回だけ、お金出ないんですか?って聞いた。そしたら、書庫の整理は勉強や。だから、お金はないって言われた」 「気の毒」 「ですよね」  アンナが少し笑う。容疑者の顔ではわからないけど、そんな気がした。 「他の学科はきちんと時給でお金出たりするねんけど」 「春政って何の学科なん」 「文系の国語の方」 「何それ」 「文学、言語学、国語学、国語教育、日本語教育、古典。うちはなんでもありやから」 「めっちゃ偏見で言うけど、頭とか硬そう」  名前だけでそんなことを言うのはとっても偏見に満ち溢れている。でも、あながちはずれていない。 「建物ないやん」  正門についた。正門からまっすぐのびる道はグランドに続いている。道の左右には、となりのトトロで見たような木が生えている。けっこう自由に。その木に隠れて建物はほとんど見えない。この大学の特徴は敷地面積における緑の割合が、全国で3位なのだ。ちなみに一位は、北海道大学。 「それいいことなん?」 「蚊の発生率もたぶん全国3位」 「緑を守るのも大変や」 「ですな」  なんやねん、そのしゃべり方。容疑者の口から出てくるアンナの声。声は空気を震わせて耳まで届く。アンナの声がぼくの鼓膜を揺らす。心地よい。ぼくはそう思った。声を好きになるってこういうことかもしれない。  大学院の書庫は、元々大学の図書館だった建物。3年前に、新しい図書館が建てられた。そのため、大学の各学科の書庫として利用することになった。よくそんな金があったものだ。おかげで小学校でも教室に冷暖房完備の時代に、ここの大学の学生は夏は汗だく、冬は震えて授業を受ける。教授だって大変だ。  ぼくの学科が利用できるのは、図書館の書庫だった部分。国語科だけあって、学科で持っている本が一番多かった。なので、書庫。書庫は、古い本を所蔵しておくところ。だから、昼でも暗いし、なんだか怖い。そんなところの整理は、もちろん大学院生の仕事。学費を返せと言いたくなる。これも勉強だというなら、入学案内にその部分も載せておいてほしい。 「整理って何するん」 「どこにどんな本があるか、一覧表とその地図作るねん。先輩らもやってんねんけど、まだ全部無理やねんて。本自体増えたりするし」 「私、パスやわ」 「もともと無理やん」  アンナが笑う。カビと古い本のにおいと暗い所と賃金ゼロ。一言で言うならしょうもない仕事。でも、アンナがいるおかげだ。ぼくの心はけっこう明るかった。でも、ぼくは気づくべきだった。アンナや容疑者ウサギが見えるのだ。出会ってしまった以上、アンナに出会う前のぼくには戻れないことを。  その人は、書庫の奥にいた。教授が集めた文学の本のあるところ。つまりは、最近はやりの小説たち。小さな町の本屋より品ぞろえはいいと思う。一度教授に読まれると、ほとんどの場合ここにおかれる。貸出期間に期限なし。国語科の学生は、図書館なんか使わずに小説を読みたい時はここを利用する。利用するには、教授か院生が持っている鍵を借りなければならない。  今日は日曜日。教授は大学には来ていないはず。大学院生だってぼくぐらいなものだ。なのに、その人は書庫の中にいたのだ。しかも、見覚えがある顔。50代前半。  ぼくの足は震え始めた。鼓動が速くなる。アンナがぼくの異変に気づく。 「どうしたん?」  この声は、その人に聞こえただろう。そして、その人はこっちを向く。わかっていても、ぼくはその人を見ることをやめられなかった。持っていた本を棚に戻し、その人がこちらを見る。一瞬の間があって心臓が脈をうつ。目が合う。そんなはずはない。だって、あなたは死んだんでしょ? 「店・・長・・」  彼はこの大学の生協購買部(いわゆる生協のコンビニ)の店長だった。ぼくは、学部にいた頃、そこでアルバイトをしていた。店長は去年の冬、自殺した。理由は、店の売り上げを盗まれたから。盗んだ犯人はわからない。購買部と食堂。大学生協には二つの店(と呼んでいいかわからないが)がある。それぞれに店長がいて、その二人に指示をするマネージャーがいる。本部からたまに来て、二人の店長を叱っていた。売り上げを盗まれた時のマネージャーの怒りようはすさまじかった。  怒るのはわかるが、店長をもう人としては扱っていなかった。それから、しばらくの後店長は死んだのだ。 「見えるのか?」  驚いたのはぼくだけじゃなかった。 「本が浮いてるように見えたんじゃなくて、俺が見えるのか?」  ぼくはうなづいた。相手が驚いた顔を見せたことで、震えは少しずつおさまっていく。 「頼みがある」  店長は、顔をあらん限り近付けてくる。声は聞こえるが口臭はしない。幽霊が無臭で助かった。  ふっと、店長の顔が消える。追う。店長が土下座する。この間に、逃げだせば良かった。でも、ぼくは店長に声をかけていた。 「どうしたんですか、店長。そんな土下座までして」  店長は顔を上げずに言う。 「頼みがある。君にしか頼めない」  嫌な予感がする。アンナを見る。何も言わない。 「君には俺が見えてるんだろ。肩には動物の浮遊霊がいる。わかってて君は肩に浮遊霊を乗せてるんだろ」  死んでしまった店長に土下座されているぼくは何なのだろう。店長にはお世話になった。断れない。断ったら、ぼくは昔のぼくを裏切ってしまう。そんな気がした。 「わかりました。だから、顔上げてください」 「本当か」  店長はまだ顔を上げない。 「大丈夫ですって。なんなんですか、頼みって」  店長は土下座したまま震えている。少しして、立ち上がるとぼくの顔をのぞきこんでくる。 「藤原君」 「はい」 「俺の娘と付き合ってほしい」 「は」 「娘は今、誰とも付き合ってないはずなんだ。誰かと付き合う前に君が娘と付き合ってほしい」  店長の透けた体の先に見える書庫の白い壁を見ていた。幽霊から、娘と付き合ってほしいと言われる。なぜだ。 「ちなみに、俺が言うのもなんだが娘はかわいい。藤原君では少し厳しい部分があるかもしれないが、頑張ってほしい」  容疑者の体が震えている。見なくてもアンナが笑いをこらえているのがわかる。世界中が一気に敵になったようだ。 「どうして、そんな頼みを?」 「見たんだ」  だから、何を。つっこみたかったが、店長の言葉を待つ。 「あいつらここでいちゃいちゃ。人が見てるのにいつまでもいつまでも」  でも、あんたは見えてないから。もちろん、つっこまない。店長は思い出してくると、その時の怒りが湧いてきたようだ。 「二人は周りが見えてない感じだった。馬鹿みたいに体を密着させて。男の手は娘の体を、俺の娘の体を好き勝手に触ってたんだ。娘も娘で一つも拒否しない。それどころか、甘えた声まで」  あとは声にならない。この書庫に入れるということは。 「娘さんか、その相手はこの大学の国語科の誰かということですか」  書庫に入るには大学院生か教授が付き添うことになっているが、一見さん以外はついていくことはほとんどない。同じ学科ならそれだけで信頼してしまう。 「男の方がそうだ」  ということは会ったことがあるかもしれない。 「でも、そんなに娘さんが大事なら、どうしてこんな頼みを。もし付き合ったらその先があるじゃないですか」 「俺だってガキじゃないんだ。そんなことはわかってる。その男はとっかえひっかえ色んな女をここに連れて来てる。大切な娘なんだ。あんなやつとは付き合わせたくない」  だったら、自殺なんかしなければ良かったのに。ぼくは言葉を飲み込んだ。アンナを見た。店長を見てから、一度もしゃべらない。何かありそうだ。ぼくはアンナを見ただけで、声はかけなかった。仕方がない。 「名前は」 「娘は、麻衣子。男の名前は入江。やってくれるか」  店長はなんだか変わってしまった。ちょっと頼りないけれど、優しくて仕事に一生懸命で、山城教育大学にある生協購買部が人一倍好きだった。あの頃の店長のために、ぼくは仕事を引き受けることに決めた。  いくつか店長に質問して、書庫を後にした。整理なんかしている場合ではない。引き受けたもののいいアイディアは一つもなかった。 「あの人、おかしいわ。なんか裏ありそうやで」  アンナが言った。 「それで一つもしゃべらんかったんや。何がおかしいか、アンナは分かる?」  アンナは肩から離れ、校内にいくつか置いてあるベンチの方に向かって飛ぶ。座れということか。2、3言ですむ話ではないということだろう。  ベンチに座る。容疑者の体のアンナもきちんとベンチに座る。もし、容疑者が見えていたら不思議な図だろう。 「あの人がどうやって死んだか教えて」  ぼくは言われるまま店長が店の金を盗まれて自殺したことを告げた。死んだ場所は、レジの奥にある事務所兼倉庫。 「おかしいな」 「何が」 「いっぱいおかしいとこあるけど、まず、店の売上盗まれたぐらいで自殺するかな」  それは事件が起こった当時、何人かの大学生が持った疑問だった。警察が自殺と断定した後は、すぐに消えていったけれど。 「それから、なんであの書庫におるん。あっこにおるってことは、地縛霊やないやろ」 「そうなんや」 「当たり前やんか。地縛霊になるんやったら、生きてる間に強く感情を刺激された場所や。殺された場所とか、思い出の場所とか。でも、あの人は書庫にいた」 「娘さんを追って」  でも、そうするとあそこにずっととどまる理由がわからない。 「そやろな。書庫にとどまる理由がわからんけど」  アンナも同じ考えだった。やっと、彼女の思考に追いつけて安心する。 「麻衣子さんが心配でこの世に残ったんはわかる」 「けど、それやったらなんで書庫にいるんか。途中までは、娘の麻衣子さんについてたのは確かやろうし」  溜息を一つして、目線を上げると容疑者の顔があった。思わず叫びそうになる。 「どうするん?」 「どうするって」 「書庫に行かなかったら大学院の研究できひんとかあるん?」 「いや、そんなことないで」 「それやったら、このことにもう関わったらあかん。このことは忘れよ」  顔は容疑者の間抜け面だが、目に力がある。アンナが真剣に言ってくれていることがわかった。アンナの言葉をすぐに受け入れれば良かった。 でも、ぼくは考え込んでしまった。このままなかったことにする。ぼくのちっぽけな見栄がそれをなかなか許さなかった。 しばらく考えてアンナの言うことに従おうと思った時、もうぼくは引き返せなくなっていた。覆水盆に返らず。零れた水はどこまでも落ちていく。 「藤原さんですよね。大学院生の」  声をかけてきた男をベンチから見上げた。金髪に健康的に焼けた肌。身長一八〇強。奥二重の目はぱっちりしていた。男のぼくですら惚れてしまいそうな男だった。  教育大学も変わってきている。ぼくが入学した頃は、先生を目指す、いかにも真面目という学生が多かった。しかし、今はお洒落な学生が目立つ。モデルの仕事をしている人もいるそうだ。先生を目指す大学の質的変化(とぼくは思っているが)が、教育界にもたらす影響を考えてしまう。正直、この男にぼくは見惚れていた。 「どうしたんすか」  男は不思議そうに見てくる。 「ああ、ごめん。うん、院生の藤原やけど。そっちは?もし、どっかで会ってたらごめんな」 「二回生の入江です」  容疑者の耳が立つ。ぼくの背中にも電流が走る。災いは向こうからやってきた。 「藤原さんって、書庫の鍵持ってますよね。借りたいんですけど」 「え」  書庫と言われて、何を返したらいいかわからなくなる。反応が遅れた。 「あの夏休みで先生がいないこと多いじゃないっすか。だから、藤原さんにお願いしようと思ったんですけど、迷惑ですか」 「今すぐに?」  とりあえず時間を稼ぐ。 「できれば」 「一緒に行こうか」  断られるかと思ったが、入江はあっさり、「お願いします」と返してくる。ぼくはベンチから立ち上がるとさっきと同じ道を戻り始めた。一度、アンナを見たが黙ったままだった。  書庫に入る。店長がまだいると思ったが、見当たらなかった。ほっとした。 「入っていいっすか」 「どうぞ」  入江は、国語教育の本が並んだスペースに迷わず歩いて行く。その背中を見ながら、視線を感じぼくは天井を見上げた。 「うわっ」  声が出てしまった。 「どうしたんですか」  棚から顔を出して、入江がこちらを見ている。 「ううん、なんでもない。ちょっとゴキブリがいてびびっただけ。気にせんとって」  入江の顔が棚の中に吸い込まれていった。店長は、逆様になって天井に立ってこっちを見ていた。エクソシストの映画か。幽霊になると重力に逆らってみたくなるのかもしれない。  入江は、国語教育関係の本を一冊手に取ると慣れた様子で貸出ノートに書名と日付と名前を書き込む。そして、ぼくを見る。うなづく。少しだけ笑うと入江は書庫から出て行こうとする。ついて行こうとするが案の定。 「話がある」 「先に出とってええで。ついでやし調べ物して行きたいし」  そう言うと入江はうなづく。 「ありがとうございました」  爽やかな笑顔を残して、彼は出て行った。でも、冷たい笑顔。先入観のせいだろうか。ぼくは振り返った。店長は普通に地面に立っていた。 「金を出す」  切羽詰った顔をしていた。 「何ですか、それ。なんのために」  ぼくの声をさえぎって、店長は店に隠しておいたへそくりの在り処を早口で言う。これで一つわかった。店長は金のせいで自殺なんかしていない。  元バイトなのであっさりと店長のへそくりは回収できた。日曜日、大学生協の購買部は開店はしてない。在庫確認のために社員さんが一人いて助かった。 「あんなところに隠すなんて度胸あるわ、あの人」  度胸があるなんてものじゃない。店内に隠していたんだから。ココナッツめかぶクッキーとチョコミントせんべいが並ぶ棚の奥。まさかそのための売れない商品なんて誰も思わない。  正門からグランドに続く道を歩く。今度は、正門に向って。アンナが言う。 「これ以上足突っ込んだら、ほんまに戻れなくなるで」  それはぼくも思っていた。でも、実感なんてなかった。大学院生とってもそこらへんの大学生とそんなに変わらない。夏休みだったらなおのこと。こののんびりした日々に、何かが起きる。どれだけ頭の中で考えても、ぼくの心臓まで実感が降りてくることはなかった。 「とりあえず店長の娘さんに会うわ。どうせ、相手にされへんやろ。それで終わり。この金も店長に預かったとか言って渡すし」  アンナの言葉を待つ。 「春政、無理したらあかんで」  ぬるい風が吹く。それでも、外に出て汗をかきはじめた肌をひんやり撫でていく。女の人に心配されるのも悪くない。ぼくはなんか照れくさくてアンナを見れなかった。それに容疑者の顔を見たら台無しな気がした。  自分の部屋の前でしばらく待つ。一体部屋で何が起こっているのだろう。ええで。中から、アンナの声が聞こえる。  中に入るとアンナが正座している。容疑者はベッドの上にちょこんと座っていた。 「アンナ」  声をかけてみた。何、とアンナが返事をする。容疑者はじっとしたまま。安心した。やっぱりアンナはアンナがいい。 「これからどうするん」  アンナが心配そうな表情をしている。心配してくれる言葉。表情。やっぱり、言葉は表情があってこそだ。 「店長の娘に会いに行く」 「本気で言ってるん、それ」  アンナの表情が険しくなる。怒っているようだ。 「最後まで聞いてえや。店長の頼みは、娘の麻衣子さんと付き合ってほしいってやつやろ。今から麻衣子さんとこ行って、付き合ってって言おうと思って」 「アホちゃう。そんなんいきなり言ったら」 「ふられるやろうな。そしたら、この件は終了やん」 「お金は」 「郵便ポストに入れておく」 「なにそれ、人が心配してるのに」  アンナは呆れた顔をしている。容疑者はじっとしている。どうしたんだろう、昨日はあんなに飛びまくってたのに。白豚ウサギはよくわからない。  だいたい会ったこともない人と、ぱっと付き合う術などぼくは知らない。 合コンとか向こうもその気ではない場でもないのに。ぼくが麻衣子さんと付き合える可能性は、ゼロパーセント。ごめん、店長。でも、ふられるぼくも傷つくのだから、許してほしい。 「夕方にバイト終わるって店長言ってたし。そんぐらいを狙って行くわ」  時間はまだ二時。書庫の整理なんてしていないから。 「じゃあ、向こうに行くまで時間あるなぁ」  アンナを見る。いつの間にかアンナと容疑者の体の向こう側が見えなくなっている。霊感が強くなっているのだろうか。これ以上、見えてほしくないのだけれど。 「そういえば、ずっとアンナに聞きたいことがあってんけど」 「何」 「容疑者ウサギのこと」 「そっちか、びっくりするやん」 「そっちかって、あとどっちがあんねん」  アンナは笑う。ぼくが和樹とアンナのことを聞くと思ったのだろう。きっと知らなくていいことは世の中にたくさんあるのだ。社会に出るのが怖くて大学院に入院したぼくでも、これまでの人生でそのくらいは学んできた。 「こいつなんなん。ただのウサギの霊とちゃうやろ」 「わかる」 「ディズニーのキャラクターみたいやん、こいつ。まあ、いくらディズニーでも、こいつを人気者にはできひんやろうけど」  アンナは容疑者を見て、いい?って小さく聞いた。容疑者はアンナを黙って見ている。アンナはぼくに向きなおった。 「信じるも信じひんも自由やけど、バチやな」 「バチ」 「そう。生きてる間に悪いことした人はこうなるねん。動物の霊になってこの世にとどまる」 「それだけ?」 「それだけ。この世には残るけど、何もできひん。ただ彷徨うだけ。ずっとこの世を見てるだけ。何もできひんて、たぶん一番つらいことやろ。私は、春政が見えててくれるから」  なぜかアンナの目は悲しげだった。 「容疑者がした悪いことって何?」  間。 「人を殺してん」  だから、容疑者ウサギ。笑えない。 「いつ誰をどうやって殺したか、それはわからへん。私が容疑者に出会った時は、このウサギの格好やった。夜の踏み切り。とっくに終電なんか終わってるな。そこでこいつは指揮をとってた。オーケストラの指揮者みたいな感じで。こんな短い手足で、ずっとな」  容疑者を見た。緊張感のない体。前世はどんな人間だったのだろう。アンナは続ける。 「踏切の音と同じリズムや。世界にあんな赤の点滅と似合う音ないやろ。人間も電車も通らへん踏切で、そのリズムを刻みながら容疑者はずっと指揮をとってた。それ見て私は泣いてた。理由はわからんけど、泣いてた」  知らない世界はたくさんある。夜の踏切で指揮をとる容疑者ウサギとか。それを見て泣いてるアンナとか。でも、どんなに悲しい世界でも知らない世界を知っていることはうらやましかった。ぼくは指揮をとる容疑者を見たくなった。そんなこと言えないけれど。 「で、気づいたら一緒におって、ここにも一緒に来た」 この部屋の地縛霊がなぜ夜の踏切なんかにいたのだろう。聞かなくてもいいことと思ったのではない。いつかアンナが話してくれる。そう思ったから言葉にはしなかった。かわりに一つ質問をした。 「なんで二人は入れ替われるん?」 「幽霊やから」  アンナはいたづらっぽく笑う。答えになってない。それは、アンナもわかっている。ぼくがそれ以上質問するのを諦めたことがわかると、アンナはベッドに飛び乗った。容疑者を掴んで思いきりぶん投げる。 容疑者は丸くなって、スーパーボールのように部屋中を飛び回った。壁にぶつかっては方向を変えて飛ぶ。アンナとぼくは思いきり笑った。容疑者が生きたウサギなら、動物虐待だ。いや、幽霊でも虐待は虐待か。ぼくとアンナが笑っていると、容疑者の飛ぶスピードが少しだけ上がった気がした。  先に部屋を出る。アンナと容疑者が入れ替わっているのだ。 「お待たせ」  アンナが容疑者の姿になって出てくる。普通、お待たせの後はかわいい女の子がよりかわいくなって出てくるものだが、アンナはデブちゃん白ウサギになっている。これはこれでかわいいと、今の日本ではなるのかもしれないけれど。  店長の家は、学校から電車で二駅の所にある。ぼくは少しだけ緊張していた。顔さえ知らない人に今から告白しに行くのだ。当然だろう。  10分ほどして、目的の駅に着く。店長の家の場所は、バイトしていた時に聞いたことがった。駅の近くのローソンと和菓子の店に挟まれた道。そこをまっすぐ行けば、7軒目に右に見える家。ぼくは注意深く表札を見ながら進む。アンナは大人しく左の肩に乗っていた。  浅野という表札が見えた。店長の家だ。ぼくはしばらく家の前で立ち尽くした。 「チャイム押さへんの」 「緊張してんねん」 「そら、そうやな」  アンナが相槌をうってくれる。それで少し緊張が解けた。思い切ってチャイムを押す。すぐに女性の声がする。 「どちら様ですか」 「あの店長の知り合いなんですけど、今更なんですが、家族の人にお渡ししておこうと思ったものがありまして」  めんどくさいのでそう言った。 「少しお待ちください」  出て来てくれるようだ。思った通り。 「けっこう、やるやん」 「何上から目線やねん」  アンナのおかげであれこれ考えて緊張しなくて済んだ。  ドアが開く。若い女性が出てくる。たぶん、浅野麻衣子だろう。 「浅野麻衣子さんですね」 「はい」  麻衣子は怪訝そうな顔をする。ぼくの顔をしばらく見てから目を伏せる。麻衣子は目を伏せたまま何も言わない。ぼくは覚悟を決めた。 付き合ってくださいと言おうとしたが、ぼくは別の手段に出た。負けがわかっている勝負では、ぼくは思いきりがよくなるらしい。 「付き合えや。どうせ、今一人やろ。付き合ってええことしようや」  言っててなんだか気持良かった。恥ずかしさを完全に通り越していた。少しぐらいはいいだろう。悪役にはまる俳優さんの気持ちが少しだけわかる。 「最悪やな、セリフも芝居も」  アンナが言う。そう最悪。そして、今からぼくは目の前の女性に、死ねとかカスとか馬事雑言を浴びせられる。最近の女性は怖いのだから。でも、見ず知らずの男に告白される向こうも気持ち悪く感じてるだろう。ごめんなさい。目を合わせられないけれど、心の中で謝る。 「わかりました」  え、なんで。っていうか、なんで敬語。麻衣子は目を伏せたまま。 「どうなってんの」 ぼくが聞きたいことをアンナが言う。こちらが聞きたい。 「入ってください」  ぼくは門を開け、言われるままに家に入ってしまった。どうなってるんだ。麻衣子はけっこうかわいいぞ。いや、そこじゃないか。予想していなかった事態に、ぼくの頭は混乱した。まさか、幽霊。そんなわけない。オーケーされてこんなに気持ちが晴れない告白は初めてだ。  麻衣子は静かに階段を上っていく。仕方なくぼくはついていく。 「どうなってるん。意味わからん」  しきりにアンナが言う。家の中は暗かった。奇麗な家は暗いと人が住むぬくもりが全く消えてしまう。それどころか冷たく感じる。 「どうぞ」  麻衣子の部屋に案内される。急展開。ぼくは麻衣子の考えていることを探ろうとした。けれど、無駄だった。手がかりがなさすぎる。それにこんな状況になって初めて、さっき言った自分の言葉が恥ずかしくなってきた。帰りたい。女の子の部屋にいるのにそう思ったのは初めてだ。  麻衣子の部屋は白を基調に、シンプルに統一されていた。真ん中に四角い小さな机がある。奥にはベッドがあり、ベッドの下には本が収納されている。ベッドの上には2体ほどぬいぐるみがおかれていた。 「ちょ、春政、春政」  アンナが大きい声でぼくを呼ぶ。ぼくはアンナを見た。 「私じゃなくて、あっち見いや」  麻衣子の方を見る。麻衣子は、服を脱ぎだしている。ぱさ、という服が床に落ちる音はこんなにはっきり聞こえるものだろうか。 「何してるねん」  ぼくは脱ぐのをやめるよう麻衣子に言った。麻衣子は意外そうな目でこっちを見る。 「だって、さっき」 「いや、そうやけど。まさか、あんなんでオッケーされるなんて思ってへんやん。こっちからあんなん言っといてなんやけど、なんで断らへんねん」 「断れないよ」  脱いだ服を拾おうともせず、白いベッドに麻衣子は座り込む。 「訳ありやで」  言われなくてもわかっている。そして、事態は深刻そうだ。ぼくは何もわかっていなかった。 「国語科の大学院生の藤原さんでしょ。入江君の知り合いの」  いくらぼくでもわかる。いけない流れだ。入江の知り合いだったら、初対面の男を自分の部屋にいれるのか。 「あの、店長から、渡してほしいって預かってたものがあってそれを渡しに来ただけやねん。さっきのは、軽い冗談っていうか」 「助けて」  ここは聞かなかったふりだ。 「いきなりすみませんでした。これで帰りますね」 「助けてください」  それは、叫びに近かった。小さな麻衣子の部屋の空気が震える。白い壁の色が痛い。からだから力が抜ける。ぼくは天井を見上げた。 「とりあえず、服着てや」  服を拾いながら麻衣子が言う。 「なんでもします。だから、警察だけには」  聞きたくない言葉が出てくる。警察。悪いことをしたわけではないが、その言葉を聞くだけで心臓が強く脈打つ。 「何したん」  アンナが言う。同じことをぼくは言った。 「何してん」  驚いた眼で麻衣子が見つめ返してくる。もう少し髪を伸ばせば、蒼井優にもっと似るのに。勝手にぼくは思っていた。 「藤原さんは、入江君が何をしてるか知らないんですか」  耳を叩きながら「アー」とやりたかった。頭の中で、県警の建物が浮かぶ。入口の自動ドアの奥には間抜けな指名手配犯の人形があったことを思い出す。入江の顔が浮かぶ。麻衣子は、黙ってうつむいている。入江のことを話すかどうか考えているのだろう。 「ガンジャ」  ぼくはためしに言ってみた。何だと聞かれたら、適当に答えればいい。でも、その必要はなかった。明らかに麻衣子の様子が変わってきた。そして、分かった。麻衣子は神の草を知っている。 「やっぱり、知ってたんですね。何が欲しいんですか。お金は、もうないんです。だから、その」  麻衣子は、小さな小物入れの引き出しを開けた。部屋の色に合わせて白色。中から赤くて細長い箱が出てくる。「薄さ日本一。0・02」と書いてある。 「これでお願いします。あの、本当にこれで許してください」  目には涙がたまっている。 「何?」  アンナが聞いてくる。ぼくはアンナを見る。 「がんじゃって何?」  そっちへの質問で助かった。 「大麻、マリファナって言った方が有名やな。インドとかでは、マリファナを神の草・ガンジャって呼んでる。依存もほとんどないし、ソフトドラッグとか呼ばれたりもするけど。犯罪は犯罪やな。日本やったら、10年以下の懲役、または、300万以下の罰金」  ぼくは麻衣子に聞こえるように言った。麻衣子はうつむいて、震えている。ぼくは暗い気持ちになった。大学生が警察を気にする。男が絡む。人目を避けての密会。まさかとは思ったが、それにしてもわかりやすい。  まじめであんまり遊びを知らない大学生が、友達に誘われてクラブに行く。そこでテンションがハイになるとかなんとかで、クスリを買う。それなりにクスリを楽しんだ後、それが麻薬だと知らされる。ぼくはアンナに説明するのもかねて麻衣子に言った。そして、いつ入江に会ったのかを聞いた。 「クラブで買った分がなくなって、もう少しほしいなって思ってたら、友達に入江君を紹介されました。入江君から何回か買ううちに」 「これか」 ぼくは赤い箱を指差した。麻衣子の唇が震える。はやく帰りたくなった。 「脅されてるん?」 「いえ。何も言われないのが怖くて」 「入江の彼女やったん?」 「違います。ただ、そういう関係になるのを断ったら脅されるんじゃないかと思って。お金がないって言ったら、じゃあって言われて、何回か入江君と。でも、しばらくしたら、入江君から連絡がなくなったんです」  麻衣子の世間知らずにいらいらする。 「入江は何も言ってないんやろ」 「そうです。でも、怖くて」  ガンジャぐらいで脅したりはしないだろう。もし、逆ぎれされて警察に通報。共倒れ。そんなことするはずがない。 「入江から連絡はあるん」 「ないんです。それが、怖くて。いつ警察が来るのか、私怖くて」  警察なんて呼ぶはずがない。そこで麻衣子が入江のことを話せば、入江の将来も終わりだ。少しだけ、麻衣子と遊んでみたのだろう。麻衣子は傷つくだろうが仕方ない。ぼくは今考えたことを麻衣子に話した。  麻衣子は泣いていた。 「なんで、そんなこと話すん」  アンナはぼくを非難した。ぼくはアンナをにらんだ。仕方ないだろ。麻衣子が口を開いた。 「国語科の書庫がガンジャの受け渡し場所になってたんです。だから、私、藤原さんも知ってると思って」  だから、コンドームか。しかも、薄さ0・02。入江の趣味か。全く聞きたくない情報だった。入江とは知り合いになった。ぼくのところへ書庫の鍵を借りにくるだろう。ぼくが鍵を貸す度に、ガンジャの取引がされる。気が重くなる。 「藤原さん」  麻衣子が呼ぶ。返事をするのも億劫になっていた。 「なに」  なんとか言葉を口から吐き出す。 「私のことどうするんですか」  麻衣子が上目づかいに見てくる。 「何もせえへん。入江のことも忘れろ。あいつはまた新しい客を捕まえてる。さっきも言ったやろ。かわいそうやけど、あいつはあんたのことなんとも思ってへん。早く忘れて、これからのこと考えたらええ」  アンナがぼくをにらんでいる。冷たい言葉だったかもしれない。でも、ぼくは続けた。 「あんたは入江に遊ばれただけや。あんたのおかげで適当に入江も稼げたはずや。どんぐらいあいつに払ったん」 「10万くらい」 「けっこう払ったな。冷たいようやけど、社会勉強になったと思って。その10万は授業料やと思い。さっきも言ったけど、あんたを追い詰めて警察に行かれるようなことはせえへんやろ。もう、このことは忘れや」  ガンジャのことは和樹に聞いたことがあった。それがこんなところで役に立つとは。ぼくは、帰る旨を麻衣子に伝えそのままドアの方へ向かった。 「待ってください」  麻衣子の頬には涙の跡があった。 「また、頼まれごとが増えたな」 「増えてないって、一個解決したやん」 「麻衣子さんに会っただけで付き合えてないやん。その麻衣子さんからは、また頼まれごとされてるし。春政ってなんか頼みやすいもんな」  それは友達にも言われる。ため息が出る。また、一個幸せが逃げたな、と思うがどうしようもない。麻衣子の部屋を出る時のことが思い出される。 「入江君を止めてください」  麻衣子の思いつめた顔が浮かぶ。入江のことが好きだという麻衣子。これ以上誰かと関係を重ねる入江が嫌なのか、罪を重ねることが嫌なのか、あるいは両方か。ぼくにはわからなかった。もっと、わからないのは、入江のことが好きだという麻衣子の心だった。  とりあえず疲れた。早く眠りたかった。電車の中でアンナとぼくは一回も話さなかった。最寄りの駅について、部屋に向かって歩く。 「これから、どうする気なん」 「とりあえず、寝る」 「疲れたもんな」 「幽霊も疲れるん」 「体ない分、心が疲れたらめっちゃ疲れる」  アンナと容疑者が入れ替わるのを待って部屋に入ると、ぼくは倒れるように寝てしまった。  おっさんの声がする。さわがしい。目を開ける。部屋の明るさから、昼前ぐらいだということがわかる。そして、おっさんの声がする。アンナの姿を探した。テーブルをはさんで、おっさんとアンナが対面して座っている。楽しそうに話をしている。手招きをして、容疑者を呼んだ。相変わらずちょこまかと部屋中を容疑者は動き回っていた。  近づいてきた容疑者を掴んでみる。掴めた。よし。おっさん目がけてぶん投げる。命中。おっさんが倒れこむ。やっぱり、おっさんは幽霊だった。幽霊同士はぶつかるらしい。 「何するんよ、容疑者がかわいそうやん。プラスおっさんも」 「なんで、俺の部屋におっさんの幽霊がおんねん」 「夜暇やったし、外散歩してたら出会った。で、おもろいおっちゃんやし連れてきた」  なぜ?というか、アンナは地縛霊じゃないのか。嘘だったとしても、自分で作った地縛霊という設定ぐらい守ろうとしろ。頭が痛くなる。 「おっさん、誰。なんで幽霊になったん」  とりあえず、聞くべきことを聞くことにした。 「おお、俺な。ホームレスやっててん。でもな、ホームレス狩りっていうんかなぁ。若者にぼこぼこにされてな。今、幽霊させてもらってます。よろしく」  何をよろしくすればいいのだ。幽霊にもいろいろいるらしい。陽気なおっさん幽霊。 「あ、名前?木村琢磨。もちろん、キムタクでええよ。スマップもホームレスも職業横文字やし」  スマップとホームレスは、職業なのか。でも、完全な間違いではないと思う。もし、このまま幽霊が増え続けたら、ぼくの部屋はどうなるのだろう。 「いやぁ、まさか幽霊になって家に住めるとは思わなかったわ」  おいおいおいおい。いったい、アンナはどこまで話をすすめたのだろう。 「話は聞いたで」  急にキムタクは、真剣な表情になる。今のクスリ事情は難しいぞ。キムタクは前置きをして話し出す。 「まず、薬の売人だが、やつらは一か所にずっといることはない。顔を覚えられたら、そっから捕まることもあるしな。2、3回一つのクラブに顔を出したら違う店に行く。ある程度まとまった金を稼いだら、違う県に行きやがる。その入江ってやつがどっからクスリを仕入れているか知らないが元をたどるのはかなり厳しいだろう」  キムタクは続ける。 「それから、ドラッグと言えばやくざとみんな結び付けたがるが、ガンジャ程度なら外国の輸入商品を扱う店ならすぐに手に入る。入江の卸元を見つけるのも大変やで」  キムタクの中では、ぼくが入江をとめることになっている。アンナはぼくの力になってくれそうな幽霊を探してくれたのだろう。入江をとめる。具体的な方法はまだ浮かばなかった。 「その入江ってやつのポジションがよくわからんな」  キムタクが困ったという顔をしている。眉間に皺を寄せて、かなりわかりやすい顔だ。キムタクの話だと、薬の売人は買い手に顔を覚えられないようにするらしい。だとすると、入江はそれに当てはまらない。女目当て。遊び目当て。金目当て。入江の本当の目的もよくわからない。もちろん、卸元も。 「春さん」 「何ですか、その呼び方」 「こんないい部屋に幽霊の俺を泊めてくれるんだ。春さんと呼ばせてくれ。何でも言ってくれ。俺はあんたの助手になる」  これで、また同居人が増えた。 「で、春さんはこれからどうするつもりで」  ぼくは店長にこれまでの経緯を説明すると話した。ぼくには幽霊の味方がいる。向こうに気づかれずに調べられることもあるだろう。それでも、どこまでやれるかぼくには自信がなかった。  店長は、また書庫の奥で小説を読んでいた。ぼく以外の人が見れば、ポルターガイストということになるだろう。 アンナの話では、この世のものに触れることができる幽霊と触れることができない幽霊がいるらしい。この世への未練が強ければ強いほど、この世でも強い力が発揮できるらしい。店長はかなり未練が強いようだ。いや、恨みと言い換えることができるかもしれない。  ぼくは麻衣子に会った時のことを話した。店長は表情を変えずに聞いている。最後にぼくは新しく仲間になったキムタクを紹介した。店長が口を開く。 「娘と付き合ってほしいと頼んだはずだが」 「でも、入江っちゅう男に惚れてるって話やで」  ぼくより先にキムタクが言う。 「藤原君、娘のことどう思った」  キムタクの話を無視して、店長が言った。ぼくは正直に答える。 「かわいい人やなって思いました」 「だったら、諦めず娘と付き合えるよう頑張ってほしい」 「おかしいやろ、浅野さん。娘さんは、入江ってやつに惚れてるねんで。しかも、入江がクスリを売るのをやめさせてほしいって、春さんに頼んでる。他に気にするところあるやろ」 「だからこそだ。入江のことなんて忘れさせてほしい。藤原君の顔では、娘と釣り合うのは厳しいかもしれないが頼む」  きっちりそこは気にするようだ。確かに、店長の娘は思った以上にかわいかった。麻衣子と付き合うことができれば、男として正直うれしい。けれど、麻衣子は入江に惚れているのだ。その気持ちを自分に向けさせる自信はなかった。 「春さん」 「店長、どちらにしても入江君のことはなんとかしないといけないと思います。でも、彼を警察に突き出したら、麻衣子さんまで捕まる可能性もある」  ぼくは言葉を紡いでいくたびに、心がしぼんでいくのを感じた。 「このまま入江君を放っておいたら、麻衣子さんが巻き込まれる可能性は残ったまま。店長、ぼくは入江君のほうを何とかしたいと思います」  さすが、春さん。キムタクは、手を叩いてぼくを称える。ぼくには何のアイディアもなかった。 「藤原君、入江のことなんていいんだ。娘のことだけ考えてほしい」  店長は何か隠している。ぼくが店長に質問しようとした時、携帯が鳴った。書庫の空気が凍って震えるみたいだ。ディスプレイに和樹の名前出ている。ごめんなさいと言って、携帯に出た。 「元気?」 「何やねん。ごめん、今、ちょっと手が離せなくて」 「ああ、そうなんや。あの、春政」  和樹の声が暗い。和樹が電話をしてくるのも珍しいが、暗いのはもっと珍しい。 「どうしてん」 「ああ、うん。いや、忙しいねんな」 「あ、ちょっとぐらいやったら大丈夫やで」  少し間があく。 「いや。俺、九州行くって行ってたやん」 「うん」 「明日から行くし、しばらく俺には会えへんし。うん、よろしく」 「それだけ」 「おお。一応な、うん、一応。そういうこと」  電話は一方的に切れた。明らかにおかしい。でも、ぼくには二つのことは同時にできなかった。和樹には、後で連絡しようと思って、忘れてしまっていた。ぼくは本当に馬鹿だ。 「春さん」  キムタクはせっかちだ。 「ぼくはぼくなりに頑張ってみようと思います。もちろん、麻衣子さんが警察に捕まるようなことにはならないようにします。それから」  店長が怒鳴る。 「入江には手を出すな。麻衣子のためもあるが、藤原君。君のためでもあるんだ」  店長に視線が集まる。店長が震えているのがわかった。幽霊でも怖いものがあるようだ。今度は泣きそうな声になった。 「頼む。入江には深入りするな。そして、麻衣子が入江に近づかないようにしてくれ」  店長はすでに泣いていた。幽霊の涙はやはり塩辛いのだろうか。 「店長、どこまでやれるかわからないけど、麻衣子さんを惚れさせてみせるよ」  ぼくが言ってもきまらないことはわかっていた。女の涙に男は弱いという。男の涙にだって弱いじゃないか。他の男に惚れているという女性を振り向かせるなんてぼくにできるのだろうか。  シャーシャーシャーシャー。気持ちが沈んでいる時に限って、セミの声がよく聞こえる。日差しがセミの声に後押しされて強くなっていくみたいだ。 ぼくにはほかにやらなければいけないことがあった。山城教育大学の最寄りの駅から一駅。JRと近鉄が連結している駅の近くにそれはある。山城警察署。これからキムタクを襲った犯人の情報を伝えに行く。キムタクの話によると、大学院の学生の話なら信用してくれるということだ。学歴、学歴と黄色い歯を見せて、キムタクは笑う。  駅に着くと、合わせたように電車が来た。乗り込む。弱冷車のようだ。クーラーの有り難味を全然感じられない。天井に白い扇風機のようなものが動いている。アンナもキムタクもしゃべらない。当たり前だ。誰にも見えない彼らに返事をしていたら、ぼくの乗っている弱冷車は貸し切り車両になってしまう。 「私小さい頃、電車に乗るの怖かってん」  独り言です。とアンナが言う。アンナの声は奇麗だった。綺麗過ぎて弱冷車の中がひんやりした気がする。 「一回乗ったら、もう止まらへん気がして。そんなわけないんやけどな。自分は移動してるのに、体は動いてへんのがなんか変な感じやって。変やな、私」  もし、隣にアンナの顔があったらすごく綺麗だったんじゃないだろうか。ぼくはそんな気がした。電車は、駅に着きぼくらは無言で降りていった。  警察署。どうしてこんなに入りづらいのだろう。そういえば、警察署の建物そっくりなラブホテルが出来たらしい。人間の欲はよくわからない。なるべく関係ないことを考えながら自動ドアの前に立つ。ガー。自動ドアの音と動きがはっきりとわかる。 「あの、片桐さんて方がこちらにいると伺ったのですが」  受付で、キムタクに言われた通りのことを言う。ホームレス襲撃事件の情報がある。信頼できる刑事に情報を渡したいから。なんとか、片桐という刑事に取り次いでもらえることになった。しばらく待たされる。なるべく誰かと目が合わないように気をつけていた。 「あなたが藤原さんね。色々聞きたいことはあるけど。まあ、いいわ。ついてきて」  片桐は女だった。坊主のいかついおっさんと勝手に考えていた。ぼくは立ち上がれずに廊下に奥に進んでいく片桐の背中を見ていた。  案内されたのは、自販機がある署内のカフェスペース。 「何か飲む?」  片桐がこちらを向かずに聞いてくる。ぼくと目を合わせようとはしない。鼻から信用していない感じまる出しだ。顔はいかついけど気のいいおっさんだったらよかったのにとぼくは思う。 「何か頼めば」  アンナが右肩から言う。 「じゃあ、あの、コーヒーを」 「はい」  片桐は100円をぼくに渡す。 「おつりは返してね」  普通こういうのはお金を入れた状態にして、ぼくに購入のボタンを押させるのではないのか。ぼくは、80円のコーヒーの砂糖・ミルク抜きというボタンを押した。カップが落ちる音がする。ぼくの後ろでは片桐がコーヒーをすする音がしていた。帰りたい。 キムタクを見ると、じっと片桐を見ている。鼻の下がのびきっている。そういうことか。恋心は幽霊になっても残るらしい。熱すぎるコーヒーを少しだけ飲む。心があったかくなる瞬間はいつも突然やってくるようだ。 「で、琢磨さんの件だけど、君は犯人を見たの」  黄色いパーカーの男。白い帽子を被った男。ダブダブのジーパンに白のタンクトップの男。後一人は、上下黒で統一していた。キムタクが覚えている犯人の格好を伝える。 「そんな連中どこでもいるわ」  そこで、キムタクがにやっとする。これならどうだということだろう。そんな駆け引きになんの意味があるのかわからないが、キムタクの言うとおりぼくはしゃべる。 「車のナンバーを見ました」  片桐がこちらを見る。化粧をしていなくても十分綺麗だった。キムタクの話によると30は越えているそうだが、ぼくと同い年ぐらいに見えた。 「本当に?覚えてるの」  初めて片桐の声に力がこもる。キムタクはその片桐の顔をうれしそうに見ていた。ぼくはゆっくりうなずいて、ナンバーを言った。 「わの0195」 「間違いない?」  ぼくはさっきよりも深くうなづく。 「そのおつり、君にあげるわ」  返そうと思って、返しそびれたコーヒー代のおつりが右の掌の中にある。 「あの」  なに、と短く片桐が返事を返してくる。 「木村琢磨さんとは親しかったんですか」 「親しかったというか、お世話になったって感じかな。どんな世界にだってルールがある。そこに人間がいればね。ホームレス、やくざ、暴走族、そこに集まる集団には何かのルールが生まれる。君が小学生だった頃、友達同士で作った遊びのルールってあったでしょ」  ぼくは片桐から目をそらさずにうなづく。 「琢磨さんは、ホームレスの世界にルールを作ってくれた人なの。世界っていっても山城中央公園の西口周辺だけどね。ホームレスは、公園に来る人に迷惑をかけない。来る人の迷惑にならない。当たり前のことかもしれないけど、私たちはずいぶん助かった。それに、意外なネットワークがあって、思わぬところで事件が解決したり」  なんだか片桐は楽しそうだった。 「ほら、君はあの事件覚えてない?覚醒剤の密売人の一斉検挙。つい、この前の。この前っていっても、二か月くらい前だけど。あれは琢磨さん達の情報をもとにして、捜査してたの」 「ギブアンドテイクやな」  キムタクはとてもうれしそうだ。 「ギブアンドテイクね。危なかったの、山城公園のホームレス。強制撤去寸前だった」 「で、あの人が来てホームレスに秩序ができて、ギリギリ目をつぶることができた」  片桐は笑って、コーヒーを飲む。 「それにね、どうしても警察じゃ手が回らない範囲も正直あるし」  それはわかる。クスリなんてどこでも売っている。警察の目の届かないところを見つけて。何人の売人を捕まえようと次から次へと湧いてくる。高校生でも手に入る。夜街中を歩き回る先生は、今も夜の街を歩いている。それでも見つけて捕まえる。その繰り返し。一人でも、救える子がいるなら。大人は、悪いやつを捕まえないといけない。だから使えるネットワークは使う。ぼくは悪いやつを捕まえる大人になれるのだろうか。 「絶対、捕まえる」  コーヒーを飲みほして片桐は立ち上がる。 「藤原君だったよね。犯人捕まえたら、お礼するから」  慌ててぼくもコーヒーをのどに流し込む。 「みんな必死で生きてる。そんな人をさ、面白半分で殺しちゃいけないよね」  片桐の目は冷たかった。 「それにさ、私、またさみしくなったし」  片桐が歩き出す。ぼくはその背中を見ながらついていった。 「もう、二度と行きたくないわ。あかんて、警察」  道路にしゃがみこむ。ほんの30分ぐらいのことなのにぼくは体中の力が抜けるのを感じた。 「情けないな〜、あんたそれでも生きてるん」  デッドオアアライブでつっこまれたら、それ以上何も言えない。 「あ、そうだ。キムタクさん」 「キムタクでいい」  むしろ、キムタクがいいとキムタクは続ける。 「キムタク、あの、片桐さんの最後の言葉。また、さみしくなったって、どういう意味?」 「ああ」  キムタクは、ぼくの部屋にむかって歩き出す。キムタクの背中を追って歩くと、少し風があることに気づく。壁を通り抜ける幽霊は、この風を感じることができるのだろうか。 「片桐さんの娘さんな、亡くなってんて。詳しくは聞いてないけど。で、そしたら旦那さんも行方くらましたらしいわ。旦那さんもつらかったんやろな。恵子さんもつらいやろうけど。あ、あの人の下の名前な、恵子さんて」  キムタクはこういう性格だから、すぐに片桐と仲良くなったのだろう。 「自分がいるこの場所を守ってたら、旦那さんが帰ってくる場所を守ってたら、前みたいに戻れるんちゃうか、そう思ってあの人は頑張ってるらしいわ」  みんな必死で生きてる。ぼくはその日学んだ。そして、幽霊だって必死でそこに存在してる。ぼくはそう思った。  最近、よく眠れるようになった。なかなかハードな大学院一年目の夏休みだ。ぼくは寝返りをうった。起きたくない。起きてしまうと事実を認めてしまうからだ。 「おじちゃん、いつまで寝てるの〜」 「おじちゃんじゃない」  やってしまった。なぜだ、一人暮らしのはずなのに。アンナに容疑者ウサギにキムタクに、そして女の子。 「名前は」  結局聞いてるぼく。これでは眠るのが怖くなってしまう。 「めぐみ」 「なんて字を書くの」 「恵子の恵って言いなさいって言われた」  キムタクを見た。キムタクがうなづく。昨日会った片桐の娘だ。 「おじちゃん、お母さんを助けて」  だから、おじちゃんじゃないって。っていうか、なんだその重いお願いは。 「お母さんは悪くないの。私が悪いの。私が弱いから、病気なんかに負けちゃったの。お母さん、私のことでずっと自分を責めてるの。お母さんを助けて」  質量で言うと、世界中で最も軽いだろう女の子から、なかなか重い言葉がぼくの耳に届く。大学入試のために必死で勉強した数学の方程式よりはるかに難しい問題がぼくの目の前にある。店長。麻衣子。入江。ガンジャ。キムタクを襲った犯人。片桐とその娘。 「どうするん、春政」  その声で、容疑者、キムタク、恵がこちらを見る。どうしたらいいかなんてわからない。とりあえず動くしかないとぼくは思っていた。 「麻衣子さんに、もう一度会う」  会ってどうするのかは、わからない。昨日の店長のこともある。もう一度、会おうとぼくは考えていた。 「ダメだよ、春さん。麻衣子さんに惚れちまったら」  キムタクは、目をきょろきょろさせてアンナを見ている。わかりやすいって。 「大丈夫やって。それに、麻衣子さんとじゃ釣り合えないし」  ぼくは笑った。冗談のつもりだったのだけれど、恵はぼくの手を握り潤んだ瞳で見つめてくる。アンナもキムタクも容疑者もぼくと目を合わせようとしない。そういうのが一番傷つくって。ぼくは部屋を出る準備にとりかかった。  麻衣子の部屋には、二人分のコーヒーとケーキが用意されていた。ぼくの後ろには、容疑者ウサギ姿のアンナ、キムタク、恵がいる。麻衣子は、コーヒーにもケーキにも手をつける様子はない。正座した膝の上で握った手を俯いて見ている。 「あの、お母さんいるの?」 「どうでもええやん」  ぼくの質問に対して、まずアンナがつっこむ。 「下にいます」 「失礼かもしれないけど、店長がなくなってどうやって生活してるん?」 「保険です。あと、お母さんはずっと続けてる雑貨屋のパートの時間を増やして、私もバイトしてます」  麻衣子の話を聞いて気づいたことがある。この家の違和感。とても綺麗な家なのに暗い。父親が亡くなったせいで暗いのだと思っていた。しかし、違う。この家は店長がなくなる前となくなった後で、変わっていないのではないか。 「入江から、何か連絡はあった?」  俯いたまま首を横に振る。 「こっちからは連絡はせえへんの」  麻衣子は少し震えている。 「まだ、好きなん?」  かすかに麻衣子がうなづく。ぼくのように面白みのない男より、危険な男の方がもてるということか。入江の顔が浮かぶ。世の中はもっとシンプル。入江は男前。藤原春政は頑張ってもそこそこ。軽トラで、F1のレースに出るようなものだ。我ながら、悲しくも正しい例えが浮かんだ。ぼくはゆっくり深呼吸すると、麻衣子の部屋に来るまでに考えていたことを言った。 「色々考えててんけど、形だけ付き合わへん?」  麻衣子が顔をあげる。ぼくの意図を量りかねている顔だ。麻衣子と目が合う。恥ずかしくなる。ぼくはコーヒーを飲んだ。もう、ぬるくなっている。 「いや、あの、色々考えててんけど。付き合ったふりしたら、入江の反応が変わってくるかなって思って」  コーヒーを流し込んでぼくは一気に言った。 「付き合ってるふりしたら、入江からなんかリアクションがあるかもしれんやん。たぶん、入江は書庫の鍵借りにくるやろ。そん時に、二人でおったら、なんかは反応してくるやろ。それ見て決めたらええんとちゃう。このままあいつのこと好きでおるんか。諦めるんか。少しでも、気持ちが君にあったら入江も焦りよるやろ」  もちろん、入江の出方が見たいのはぼくの方だ。ぼくと麻衣子が一緒にいるのを見れば、もしかしたら、クスリのことを知られたかもしれないと入江は思うかもしれない。麻衣子を利用するのは気がひけたが、今のぼくにはそれしか思い浮かばなかった。 「信じてくれるかな」 「一緒におったら、信じてくれるんちゃう?」 「そういうことじゃなくて。あの、藤原さんと私だと釣り合わないから」 「何が」 「顔が」 「どつくぞ」  けっこう自信あるんだ、と麻衣子がつけ加える。確かに、そうやって控え目に笑う麻衣子はかわいかった。 「確かに、たいした顔はしてへんけど。なんか、気の迷いでそうなったんかなって思ってくれるかもしれへんし。顔ではない魅力があったんかなとか思ってくれるかもしれへんやん。ってなんでこんなフォローを自分でしなあかんねん」  我慢ができなくなったという感じで麻衣子が笑う。 「藤原さんって変なところで真面目ですよね。味がある顔してると思いますよ」 「だから、その表現がほめる所ないし、とりあえず言ってみたっていう表現やん」 「ごめんなさい」  そう言って麻衣子が隣に座る。腕を絡め、頭を肩に乗せてくる。 「こんな感じですか」  CMで有名な女優を使いまくっていたシャンプーの香りがする。もし、このにおいがのら犬からしたとして、ぼくは、「あ、いい匂い」と思うのだろうか。馬鹿なことを考えて理性を保とうとする。その時点で、正常ではないのだけれど。今、ぼくの心臓の音を録音すれば、素晴らしい効果音になると思う。  目の前に恵がやってくる。目が合う。 「死んでしまえ。バーイ・アンナ」  簡単に心の中を読むのはやめてほしい。そうです。ラッキーって正直思いました。いいじゃないか、ちょっとぐらい。絡められた麻衣子の腕から、自分の腕を引き抜く。 「こんな感じで、明日からよろしく」  おふぅ。と後ろから、キムタクのため息が聞こえる。「浮気はだめだよ」と恵がわざわざ耳元で囁く。この空気はなんだ。 「なんか、寒い」  麻衣子が、腕をさすっている。麻衣子を見ると、アンナが、というか容疑者ウサギが麻衣子の首にしがみついていた。かわいい子といい思いができそうなぼくを少しは応援できないのか。 「藤原さん、なんか急に寒くなってきた」  麻衣子がぼくを抱きしめてくる。あかんて、今は。いや、あかんことないけど、やっぱあかんて。やわらかい肌の感触の後、肌よりもやわらかいぬくもりが伝わってくる。そして、麻衣子に抱きしめられているぼくの顔の前には、容疑者の顔。ぼくの体温も一気に下がりそうだ。 「てめ、こら、春さんから離れろ」  キムタクが騒いでいる。女の子の部屋で、女の子に抱きつかれているのに、幽霊に囲まれて悪寒がしている。だいぶ、おかしい。仕方がない。 「ごめん、トイレ貸して」 「え」 「いや、たぶん借りたら返すから」 「何ですか、それ」  やっぱり麻衣子は笑うとかわいい。おしい。アンナに麻衣子の首から離れろと目で合図を送る。アンナが麻衣子の首から前足を離して、ふわっと上に浮いていく。頼むから普通に離れてくれ。 「下におりてもらって、玄関の反対側にあります。すぐ見つかると思います」 「ありがと」  麻衣子の部屋を後にする。誰もついてこない。ほっとする。階段を降りてトイレを探す。すぐに見つかった。トイレの反対側はリビングだろうか。すりガラスの扉がある。TOIRETと書かれた扉には小さな窓がついている。電気がついていないので、誰も入っていないことはわかるが一応ノックして入る。  トイレを出ると、リビングのドアが開いた。40代後半だろうか。女性が出てくる。麻衣子の母親だろう。 「おじゃましてます」  頭を下げた。顔を上げると、微動だにせずこちらを見ていた。麻衣子の母親と目が合う。マネキンのような顔。そう思った瞬間、不自然なくらいの笑顔になる。 「麻衣子のお友達ね、ゆっくりしていってね」  もう一度、おじぎをして、ぼくは階段をのぼった。その間中、背中に視線を感じていた。  麻衣子の部屋に戻る。麻衣子はケーキをつついていた。 「おかえりなさい。トイレ、ちゃんと返してくれました?」 歯を見せて麻衣子は笑う。初めに会った時とは別人のようだ。 「いつから、私は藤原さんの彼女になればいいんですか?」  乗り気になっているようだ。しかし、麻衣子が乗り気になればなるほど後が怖い。もちろん、恵はいっちょ前に腕組みをしてこちらを見ている。 「とりあえず、明日からでええかな?バイトは大丈夫なん」 「うん。春政のためなら。なんてね」  もう、いいかな。麻衣子と付き合えるなら、他のことなんてどうでもいいや。そう思ってしまった。 息を大きく吐きながら天井を見る。麻衣子の部屋の白い天井と無機質な警察署の廊下が重なって見えた。その向こうに、片桐の背中が見えた。恵をもう一度見た。ぼくが恵に出会っていることを片桐は知らない。 「がんばるわ」  ぼくは言った。恵を見ながら。 「どうしたんですか、急に」 「あんたには・・・・」  遮って麻衣子が言う。 「麻衣子でお願いします」 「お願いされたわ」  これで、形式だけだが彼女が出来る。悪くはない気分だった。 「麻衣子にとって、これからしんどいことが起こるやろうけど。頑張ってや」 「彼氏っぽく言ってください」 「ついてきてや」 「はい」  麻衣子が抱きついてくるより早く、アンナの前足が首にかかる。とてつもなく、寒い。一瞬遅れて麻衣子が抱きついてくる。とてつもなく、やわらかい。棒磁石の真ん中ってこんな感じなのかなと思いながら、麻衣子の母親のことを考えていた。この家には、何かある。ところで、アンナさん。本当に寒いんですけど。  麻衣子の家を出ると、ぼくはキムタクにすぐに言った。 「キムタク、この家を監視できるか」 「春さん、まさか何か見つけたんか」 「まだ、何を見つけた訳やないけど。気になるねん、この家」  キムタクはうなづく。ぼくは、キムタクにこの家に残り、母親の様子を見ておくように言った。この家は何かある。それは母親が握っている気がした。  キムタクは、尾行等の探偵がやりそうな動作を練習している。心配しなくても、幽霊だから見えないよ。と、きっちりアンナがつっこむ。キムタクはとても残念そうに麻衣子の家に入って行った。せめてもの抵抗だろうか、こっそり庭から侵入し、裏口から入って行った。と思ったら、また顔を出して、親指を立ててぼくたちに合図する。仕方ないので、同じように親指を立てて返した。キムタクは顔を引っ込めた。 「大丈夫かな、おじちゃん」 「大丈夫やで。あのおじちゃんはな、恵ちゃんのお母さんが信頼してた」 「ホームレスなんやから」  こらこらアンナ。 「よくわかんないけど、おじちゃんすごいんだね」  そういうことだ。それに、ホームレスで社会の裏側を見てきたキムタクなら、ぼくよりあの母親のことがわかるだろう。きっと何かを掴んでくれる。  ぼくは駅に向かいながら、明日からのことを考えていた。 「形だけ付き合うことになりました」  ぼくは店長に報告した。 「顔については、しぶしぶ了解してくれました」  店長が口を開く前に、言っておいた。 「まだ何も言ってないのに」  と店長は口をもごもごさせている。一日一度は言わないと、気が済まないのか。いい加減傷ついてやる。 「娘を大事にしてほしい」  形だけって言ったのに。そう思ったが、口にはしなかった。  コンコン。  ノックの音がする。全員が扉の方を見る。一度、みんなを見まわしてから扉の方に行く。ノブを回して扉を開ける。入江がいた。 「すいません、先輩がここにいるって聞いたんで」 「また、本を探しに?」  そんなにすぐに本が読めるのか、と言いかけてやめた。 「はい」  素直に答える入江。本当にこいつがガンジャを売っているのだろうか。無邪気な笑顔。入江にとっては、クスリを売るなんて罪悪感の感じることではないのかもしれない。 「先輩、大村はまさんの本ってありますか」  大村はまとは、戦後の国語教育の母と呼ばれる人だ。 「奥から二列目の棚の上から二段目にあるわ」 「ありがとうございます」  入江が奥に歩いていく。黒のタンクトップで、鍛えられた腕の筋肉が強調されている。入江とその横を微笑みながら歩く麻衣子。はるかにぼくよりお似合いだ。  入江はすぐに本を見つけたようで、貸出ノートに名前を記入している。この前、書庫から出る時、貸出ノートの中を見た。入江の字は、とても綺麗だった。非の打ちどころがない。入江に会ってしまうとクスリの売人だと思っても、好感を抱いてしまう。そんな魅力があった。 「鍵、先輩に任せてもいいですか」  大村はまの本が二冊、入江の腕に抱かれている。 「ええで。あんな、入江君」 「何ですか」 「次、いつ書庫に来ようと思ってるん」 「いや、はっきりとは決めてませんけど」 「入江君には、いいにくいねんけど、その、話があってな」 「え」  入江は何か言いたそうだったが遮って、話を終わらす。 「ちょっと言いにくいし、時機がきたら言うわ。ごめんな、引きとめて」 「いえ、じゃあ、失礼します」  入江の背中が少し丸くなった気がする。入江が出ていくと、店長が聞いてくる。 「どうして、娘のことを話さないんだ。もしかして」 「顔は関係ないです」  顔が釣り合わないから信じてもらえないのでは、なんて台詞は絶対に言わせない。 「近いうちに、話すことになりますよ」  店長は納得いかないという顔をしている。ぼくも、次に入江に会ったらすぐに言うつもりでいた。 「いじわるだね、春兄ちゃん」  恵が言う。そういじわるだ。隠し事をされるというのは、どんな相手でも嫌なものだ。こうした方が、より麻衣子と付き合っていることを印象付けられる。そう思った。 「ところで、藤原君」 「はい」 「そのいつも肩に乗ってるウサギはなんなんだ」  アンナはいまだ店長の前では一言も話さない。恵もそのことを了解しているようで何も言わない。 「いや、このデブいのがかわいくて」 「確かに、このまるまる太った感じがなんとも言えない愛嬌を感じさせるな。それにしても太ってるなぁ」  店長はしきりに感心している。容疑者の体を借りたアンナはぼくにじゃれてくる。じゃれてくるというかしがみついてくる。首にしがみついてくる。首が冷たい。たとえ、ウサギに乗り移っていても、デブトークは女性にしてはいけない。ぼくは学んだ。  とりあえず、店長には、なぜかウサギの浮遊霊が見えてなついていると説明した。最初、不思議そうにしていたが、 「ま、私も藤原君には見えてるからな」  と、納得してくれた。近いうちに入江に、麻衣子と付き合っていることを告げると約束をして、ぼくは書庫を後にした。今日は、この後教授に会わなければならない。  教授の部屋をノックする。中から声がする。 「入りなさい」  教授の部屋に入ると、たばこのにおいがする。大学の建物内での喫煙は禁止されているのだが、この教授は気にしない。大学側もわかっているが、あと二年で退官する先生の唯一の楽しみを無理やり奪うことはしない。 「先生、寿命縮まりますよ」 「たばこがないと、ストレスで死んでたよ」  先生の口癖。毎年、幼稚になっていく大学生を相手にするのも大変なのだろう。ぼくもその一人だけれど。教授のほとんどの資料は、書庫に移動したので部屋はすっきりしている。 「どうです、書庫の整理はすすんでますか」  先生もわかっているだろう。あれ全てをぼく一人で整理するのは無理だ。 「ほどほどに」  いつもの答えを返す。そして、聞かなければならない。今日は何のようですか、と。わざわざ休みに呼び出すのだから、また、教授の仕事の手伝いだろう。しかも、無償。心の中で溜息が出る。 「君は入江君に会ったことあるかな」  心臓が一瞬止まって強くうつ。まさか、先生は入江からクスリを買っていたのだろうか。 「最近、会いましたけど」  ぼくは正直に言った。 「入江君とこの前まで一緒にいた女性知らないかな。すごく仲が良さそうに見えたんだけど」  麻衣子のことだろうか。 「そんなことを聞いてどうするんですか」 「見たことあるなと思って」 「はい、それで?」 「いや、だからさ、どっかで見たことがあるなと思って。藤原君、私がどこであの女性を見たか知らないかな」  知るわけがないだろう。まさか、このためだけに呼ばれたのだろうか。 「で、その女性を君は見たことあるかな」 「はい、一応」 「違う大学の学生なの?」  ぼくは首を振った。 「いえ、この大学の学生で確か2回生って聞いてます」  麻衣子の名前は言わなかった。 「じゃあ、人違いかなぁ。確かに見た顔なんだけど」  教授は、あごをさすっている。マイペースな人だ。たぶん、気になって仕方なかったのだろう。入江、本人に聞けばいいのに。 「本人に聞こうと思ったんだけど、最近、二人で歩いてるの見ないから。そういうことだったら、気まずいでしょ」  ぼくは苦笑いしながら、頭を掻いた。だったら、二人で歩いてる時に聞けよ。昨日、急に気になりだしてさぁ、という白髪頭の退官を二年後に控えた教授をぼくは呆れながら見ていた。でも、憎めない。 「最近、入江君によく会うので、それとなく聞いときます」 「ほんとに?いやぁ、助かるよ。頼むよ、藤原君」  なるべく早くね。と付け加える。ぼくはこの教授に一生頭があがらないのだろう。 「本当のことを言うと、仲良く大学内を歩いてた二人が、一人で歩くようになると気になるんだよね。あ、なんかあったなって。人の不幸って好奇心をくすぐるよね。で、入江君と一緒にいた女性は、どっかで見たことある顔だったな〜と思って」  呆れた爺さんだ。学問で食べて行こうとするなら、好奇心の強さが必要なのだ。入江と麻衣子のことが一段落したら、本当のことを言おうとぼくは思った。  2つ3つ、修士論文のことを話して、教授の部屋を後にした。  アパートに戻ると、また、ぼくはドアの前で待たされる。恵も一緒に待たされる。ぼくは聞いてみた。 「お母さんのとこ行かんでええの」  ずっと、ぼくの部屋にいるより、そっちのほうがいいのではないだろうか。 「うん、お母さんのところにいたよ」  どういうことだろうか。 「お母さん、家に帰ってくると毎日、毎日泣いてた。恵ね、お母さんの役に立ちたいって思ったの。お母さんが泣くのは、恵のせいだから。だから、お母さんのために何かしたいって思ったの。そしたらね、お兄ちゃんの部屋にいたんだ」 「ここにいれば、片桐さんの役に立てるってこと?」 「わかんないけど、恵は、ここにいたの」  小学校の時、先生が言ってた言葉を思い出した。 「思いは届くものなの」  その先生は女の先生だった。思いは届く。未来の自分への今の自分からの届け物なのだと言う。恵の思いは、未来の恵にどういう形で届くのだろう。なんとかしてやりたい、ぼくはそう思っていた。ぼくの思いも、何かの形になって未来の自分に届いてほしい。 「入っていいで」  アンナの声がぼくの耳に届く。部屋に入ると、アンナはベッドに腰かけていた。部屋に戻るとアンナが待っていてくれる。悪くない絵だ。アンナが幽霊じゃなければ。 「明日から、浅野麻衣子とデートやな」  アンナが窓の方を見ながら言う。 「なんでフルネームやねん」  怒っているのだろうか、よくわからない。 「春兄ちゃんは、麻衣子さんのこと好きになっちゃうの?」  泣きそうな顔で、恵が見つめてくる。 「入江っていうやつに、見せるためにデートするんやで。それに、ほら浅野麻衣子さんてかわいいやろ。向こうが本気になるわけないって」  恵の質問の答えにはなっていない。恵はそれ以上、何も言わないが口をへの字に閉じている。わかりやすい不満だというサインだ。 「向こうが本気やったら、どうするんって恵は言いたかったんちゃう」  アンナを見た。アンナはぼくを見ないで、窓の外を見ている。 「だから、そんなことないって言ってるやん」 「そんなんわからんやん」  アンナの言葉には棘がある。不安そうに恵が見てくる。怒鳴らないように気をつけながら言葉を吐く。 「だったら、なんやねん。もし、向こうが本気やったら、それはそれでラッキーってだけやんけ」 「適当な男やな」  アンナはやはりこっちを見ない。 「適当でええやんけ。かわいい子と誰かて付き合いたいと思うやろうが。なんなん?怒ってるんけ」  アンナはまだこっちを見ない。 「はあ?怒ってへんわ」 「だから、それが怒ってるやんけ。さっきから、こっち向かへんし」 「うっさいわ。私がどこ見ようと勝手やろ」  アンナがこっちを向く。左右の頬に、涙が通った跡があった。たぶん、塩味のしない大粒の涙が後から後からアンナの目を這い出てくる。アンナは涙を拭おうとはしなかった。拭えないのだ。幽霊が心の塊なのだとしたら、涙は悲しいっていうただのサインで。それはたぶん誰にも触れられないのだ。 「なんでなんか、わからんねん。ただ春政の話聞いてたら、むかむかしてきて、なんかそしたら涙出てきて、なんでなんか自分でもわからんねん」  アンナはまた窓の方を向いた。こんな時どうしたらいいのだろう。たぶん、アンナもそう思ってる。そんな気がした。 「ちょっと、ジュース買いに行ってくるわ」  ぼくはそう言って部屋を出た。これ以上、考えることを増やしたくなかった。  自販機でコーヒーを買う。最近、発売されたという超微糖が売りのコーヒー。でも、ただ全体的に味が薄いだけ。超味気ないコーヒー。ぼくはそのコーヒーを飲みながら、部屋の近くをウロウロした。夕焼けの空がまだしぶとく残っている。その時、携帯がなった。ポケットから取り出すと、液晶に片桐の文字が浮かぶ。 「もしもし」  もう、キムタクを襲った犯人が捕まったのだろうか。 「藤原君、教育大学の大学院生って言ってたよね」 「はい」 「大内って学生知ってる」 「下の名前は」 「あきら。中尾彬の彬」  見覚えがあった。書庫の貸し出しノートを思い出す。そのノートの中に確か、そんな名前があった気がする。いや、あった。 「山城教育大学、国語科の3回生じゃないですか。そいつが何か」 「君が教えてくれた車の番号の持ち主」  どういうことだ。 「どういうこと、教えて」  こちらが教えてほしいぐらいだ。教育大学の学生がホームレスを襲うなんて。 「本当は知ってたの、犯人のこと。それとも、もしかして」  片桐が言葉を切る。ぼくは聞いてみた。 「もしかして、何ですか」  かすかに片桐が息を吐いた音が聞こえた。 「君も、あの事件に関わっていたの」 「そんなわけありません」  だって、ぼくは死んだキムタクに頼まれてあなたに会いに行ったのだから。そう言えたらどんなに楽だろう。 「良かった」  片桐の声は、驚くほど優しかった。 「君と同じ大学の学生って分かった時、あなたのことを疑ってしまったの。そしたら、色々考えちゃって。すっきりさせたかったから、電話したの」 「そうなんですか、良かった。片桐さんに睨まれたままじゃ夜も眠れませんよ」  少しは笑ってくれると思ったが、片桐が笑う気配はなかった。 「このままいけば、そのうち他のメンバーもわかると思う。ありがとう、君のおかげ。全員捕まえたら、今度飲みに行きましょう。おごってあげる」 「楽しみにしてます」 「うん。また、連絡するわ」  ぼくは携帯をポケットにしまった。ぬるくなったコーヒーを一気に飲むとぼくは部屋に帰った。 部屋に入る時は緊張したが、もうアンナは泣いていなかった。当たり障りのないことを話しながら、ぼくは夕食を食べ、適当にテレビを見て眠った。明日から、麻衣子の恋人になれる。興奮して眠れないかと思ったが、ぼくの意識はすぐになくなった。 携帯のバイブ音で目が覚める。携帯の時刻を見ると、6時42分。メールを送って来た相手を恨む。メールを開くと、送信してきたのは麻衣子だとわかった。「どっちがいいですか」という文章にハートがばくばく動く絵文字がついている。メールには添付ファイルがあった。添付ファイルを開くと、右と左に麻衣子が用意したその日の衣装プランが写っている。正直、どちらでも麻衣子には似合うと思った。右手で携帯を持っていたので、「右がいい」と返信する。 返事はすぐに返ってきた。「だと、思った」今度は、ハートに矢がささっている絵文字がついている。今日は麻衣子の好きな相手の前で、恋人を演じるのだ。それを麻衣子はわかっているのだろうか。乗り気な麻衣子の気を損ねないように、返信をする。「ぼくにはもったいないけれど、よろしくお願いします」星を文末につけておいた。これが精一杯。絵文字はぼくには難しすぎる。 11時に大学で会う約束をし、メールを終える。久々にメールのやりとりで緊張した。ぼくにもまだまだかわいいところがある。麻衣子とのメールを終えると、トイレに行きたくなったので体を起こす。部屋を見ると、アンナと恵がこちらを見ていた。幽霊は寝ないのか。たまには、寝ててほしい。ぼくは何も言わず、トイレに入っていく。用を済ませてトイレを出ると、アンナの姿は見えなかった。 「春兄ちゃん、うれしそうに笑ってた」 「なんのこと」  ぼくが聞き返すと、恵は携帯を指差す。さっきの麻衣子とのメールの時、ぼくはうれしそうだったに違いない。恥ずかしくもあったが、同時にひとつひとつ監視されている気がして腹立たしくもあった。ぼくが誰とどんなふうにメールしようと自由なはずだ。ここはぼくの部屋なのだ。  「アンナは」  恵は首を振る。容疑者ウサギの姿も見えない。どこかへ行ったのだろうか。地縛霊じゃなかったのか。その時、ぼくは正直うれしかった。アンナがいない。アンナに見られていることを意識せず眠れる。アンナのことなんて少しも考えていなかった。  9時半に目覚めると、アンナが部屋に戻っていた。容疑者を使って恵とバレーボールをしている。容疑者は体を限界まで丸めて、されるがままにバレーボールになっていた。とりあえず、幽霊がバレーボールをするのは勝手だ。だが、バレーボールである容疑者が、どれだけパスを回されてもこちらに顔を向けているのは勘弁してほしい。  寝癖のついた髪を掻きながら、ぼくは出かける準備をした。アンナと目が合うと、アンナは容疑者を掴んで投げてくる。 「なんやねん」  ぼくの言葉に返事をせず、アンナはベッドに座る。ぼくはアンナを無視して、準備を続けた。ぼくの服装について、何か言ってくると思ったがアンナは何も言わない。出かける準備が整って、ぼくは部屋を出た。アンナが容疑者になるのを待たずに、ぼくは歩きだしていた。  ぼくの少し後ろを、容疑者ウサギになったアンナと恵がついてくる。誰も何も言わない。デート初日だというのに、暗い雰囲気。大学の入り口に着く。正門からまっすぐの道を行く。道がグランドに着くまでに、ベンチがいくつも置いてあるコミュニケーションスペースというものが山城教育大学にはある。道の両側にそれはあった。木の影になり、夏の日差しを避けることができるベストポジションに、麻衣子は座っていた。近づいて行くと、入念に化粧をしてきたのがわかる。ただ、自然にその化粧をほめる言葉をぼくは知らないので、何も言わなかったけれど。 「今日は、どうする」  麻衣子は、完全に恋人気分だ。ぼくのほうがついていけない。 「もうすぐ、お昼時やから。しばらくここにおったら、入江が通りかかるかなって思うんやけど」  入江という言葉に、麻衣子は反応すると思ったが、麻衣子の表情も気配も変化はなかった。 「やっぱり、春政だね。頭いい」  何がやっぱりなのか、さっぱりわからないが麻衣子の機嫌がいいのでよしとした。もう、敬語を使う気はないらしい。 「座って」  麻衣子が笑いながら言う。今のぼくに笑顔で話してくれるのは麻衣子だけなのだ。うれしくないはずがない。ぼくはかなりだらしない笑顔になっていたと思う。アンナと恵の視線を痛いほど感じながら、ぼくは麻衣子の隣に座る。 ぼくと麻衣子の座るベンチの後ろには、恵と恵に抱かれたアンナ。何を話せばいいのだろう。後ろにいる二人を気にしながら、話題を探る。 「今日、入江君が来なかったら、明日もデートするの」  それはぼくが一番心配していたことだった。どうでもいい時は会えるのに、会いたい時には会えない。誰もが経験したことだと思う。 「そのつもりだけど」 「良かった。じゃあ、またデートできるね」  麻衣子は、どこまで本気でその言葉を言っているのだろう。ぼくは、昨日の教授とのことを思い出した。麻衣子に聞いてみる。 「そういえば、何の学科なん」 「社会科。今は、日本の経済について勉強してる」 「すごいな」  正直、驚いた。麻衣子のような子が、日本の経済を勉強していることが不思議だった。偏見だけど。 「色んなこと調べるとけっこう面白いんだよ」 「今度、いろいろ教えてな」  麻衣子がうれしそうにうなづく。 「あの、うちの大学の教授で、左藤先生って知ってる」  麻衣子を見る。麻衣子の綺麗な黒い眼が見えた。目の奥の光がかすかに揺れた。本当に見えたのではなく、そうぼくは感じたのだろう。 「ううん、知らない。春政の知り合い?」 「知り合いっていうか、論文見てもらってる先生」 「春政がお世話になってる先生か、じゃあ、私も挨拶に行こうかな」  私の彼氏がいつもお世話になってます。なんて、教授に挨拶に行く大学生はいるのだろうか。  遠くで学生が騒いでいる声がする。 「なんか、騒がしいね」 最初は、体育会系のどこかの団体かと思ったが、様子が違う。学生が楽しそうに騒いでいるという感じではない。少しして、パトカーが正門から入ってきた。あの空気を切り裂くようなサイレンが響いてくる。ぼくたちの前を通り過ぎ、パトカーは生協の購買部の方へ進む。  ぼくは麻衣子を見た。麻衣子がうなづく。嫌な予感がする。ぼくたちは、パトカーの後を追った。夏休み中に大学に来ていた学生は多くないが、それでも、人ごみのせいで何が起こったのかなかなか確認できなかった。 「うちの教授がやってんて」  何人かの声が聞こえる。ぼくはなんとか人混みをかきわけて、パトカーが見えるところまできた。購買部から、警官二人にはさまれた小柄の老人が出てくる。老人と見えたのは、一気に老けこんで見えたからだ。左藤先生だった。 「先生!」  野次馬の学生がこちらを見る。ぼくは気にせず叫んだ。 「先生、どうしたんですか」  教授がぼくを見つける。顔に少しだけ生気が戻った気がした。 「私じゃないんだ。藤原君、私は、わからないんだ」  そう言う教授を、手際よく警官はパトカーに押し込んだ。すばやくパトカーを発進させる。野次馬たちは、両側に分かれ、パトカーを通す。追いかける間もなく、パトカーはスピードに乗り大学の正門を目指した。ぼくは、パトカーを追わずに生協の講買部の店の中に入った。顔見知りの女性店員を見つけて、何が起こったかを聞く。 「先生が、盗んじゃったの」 「何を」 「店の売り上げ」  ぼくは、一瞬返事に詰まる。 「先生は、そんなにお金に困ってたんですか。だって、そんなこと聞いたことないですよ」 「私もどうして先生がこんなことをしたのかわからないわ。でも、先生の持ってた鞄の中に店の売り上げが入ってたのは、本当なの。藤原君も知ってると思うけど、前の店長の時も売り上げが盗まれたことあったじゃない。あれも、左藤先生じゃないかって、警察の人が言ってた」 「そんなはずないですよ。左藤先生とは仲良くしてたじゃないですか。そんなことする先生じゃないって、わかるでしょ」 「親しくしてたから、隙ができるんじゃないですか」  男の声がする。 「あ、この学生さんが、先生を捕まえてくれたの。そうよね」 「はい」  声のした方に振り向くと、入江が立っていた。 「入江君」  ぼくについてきていた麻衣子がつぶやく。 「お店大変だから、もういいかしら」  ぼくは、女性の店員におじぎして店を後にする。麻衣子がついてくる。そして、入江も。野次馬がいなくなった店の前を歩きながら、入江に聞いた。 「入江君が、現場にいたの」 「はい。昼飯を買おうと思って、ちょうど店にいたんです。そしたら、店員の声が聞こえて、逃げていく左藤先生が見えたんです。咄嗟に追いかけて捕まえたら」 「鞄に、店の売り上げが入ってたのか」 「はい」  入江がうなづく。 「何かの間違いやないんか」 「確かに、先生の鞄にお金が入ってました。だから、警察だって来たんですよ」  入江の言うとおりだった。学生相手の購買部では、どうしてもレジの管理が甘くなる。学生を信用しすぎる向きがある。それでも、一度、店の売り上げを盗まれた経験から、レジのお金の管理にはある程度気を配るようにしていたはずだ。 「まだ、学生がそんなに店にいない時、ようレジチェックしてはるじゃないですか。そん時に、一瞬レジから目を離さはって、先生が盗ったらしいですよ」  ぼくの心を見透かしたかのように、入江が言う。ぼくにも経験がある。どうしても、こういう商売は釣り銭のミスが起こりやすい。だから、開店中も頻繁に売り上げと、レジの中のお金が合っているかチェックするのだ。教育大学の学生だから、よもや盗みなどしないだろうと、よくお客がいる前でレジチェックはしていた。釣り銭を多く渡しすぎて、売り上げが100円ちょっと足りないことや、その逆もしばしばあった。 「春政」  麻衣子が、ぼくの服を引っ張っている。麻衣子を見ると目を動かして、入江を見る。教授のことばかりを考えていたが、ぼくには、まだやらなければならないことがあった。予期せぬ形で、入江が目の前にいる。すぐには、何を言っていいかわらなかった。ぼくが、口を開こうとすると、先に麻衣子が言った。 「入江君、私、藤原さんと付き合うことになったから」  麻衣子が凛とした声で言う。 「いいよね」  麻衣子がそう聞いても、入江から何の返事もない。入江を見ると、口を開いて茫然としている。目には光がない。驚いたというより、何がどうなったのかわからないという顔だ。急に腕を引っ張られた。 「行こう、春政」  麻衣子がぼくを引っ張る。どんどん麻衣子は正門の方へ向って歩く。ぼくは一度、振り返って入江を見た。入江は、ぼくと付き合っていると麻衣子が告げた場所から動かずに、こちらを見ていた。麻衣子はどんどん歩くスピードを上げるので、これ以上ぼくは振り向いていられなくなった。  正門を出て右に曲がり、坂道を下る。やっと、麻衣子が歩くスピードを緩めた。 「ええの、あれで」  咄嗟のことで機転がきかず、何も言えなかった自分の頼りなさを麻衣子に謝りたかった。が、言いだせなかった。 「なんか、どうでもよくなっちゃった。藤原さんの隣にいたら、どうしてあんなやつにこんなに拘ってたんだろうって、思って」  呼び方が藤原さんに戻っている。どうして、こういう時に限ってどうでもいいことに意識が行くのだろう。 「ねえ、藤原さん」  前を見たまま、麻衣子が言う。 「私たち、このまま本当に付き合いませんか。それとも、クスリなんかやってた女は嫌ですか」 「今すぐに、返事せんとあかんかな」  麻衣子は首を振る。そして、いつならいいですか、と聞いてきた。 「今日の夜に、もう一回会えへんかな」  ぼくの言葉に、麻衣子がうなづく。 「恥ずかしいから、走りますね。藤原さん、また後で」  ぼくの二歩先から、麻衣子は振り向いて笑う。そして、前を向くと駅の方に走って行った。最初に会った時。恋人のふりをした時。そして、今。どうして、そんなに違う表情を見せてくれるのだろう。ぼくは遠ざかっていく麻衣子の後姿をずっと見ていた。 「私らがいるから、すぐに返事せえへんかったん。遠慮せんと付き合えばいいのに」  アンナがぼくの背中に話しかけてくる。ぼくは振り返って、恵とアンナを見た。 「そんなんちゃうわ。他にやらなあかんことがあんねん」  そう言って、ぼくは携帯を出す。 「恵のお母さんに電話や」 ぼくは片桐の番号を押した。片桐がすぐに出る。 「どうしたの」 「知り合いの教授がさっき逮捕されたんですけど。絶対、教授はやってないんです」 「なんのこと、ちゃんと順を追って話して」  ぼくは、一度、頭の中を整理してから、左藤先生のことを話した。 「一回、捜査に協力したぐらいで、自分の言ってることがなんでも警察に信用してもらえると思ってるの」 「警察に信用してもらえるとは思ってません。でも、片桐さんなら信じてくれるんじゃないかと思って」 「君ねぇ」  片桐が間をおく。 「いいわ。話したいこともあるから、一度、署に来て」 「今すぐに行きます。いいですか」  断られると思ったが、意外にも片桐は了承してくれた。 「待ってるわね」  ぼくは、ありがとうございます、と頭を下げ、携帯をきった。もちろん、向こうには見えていないだろうけど。 「あの教授には、いい薬じゃないの。世間てものを勉強するには、いい社会勉強になるんじゃない」  アンナが言う。教授の理不尽な言動を思い出す。教授にいきなり講演のテープ起こしを依頼され、三日間徹夜したこともあった。バイトが終わって、深夜で一人、2時間の講演をウォークマンで聞きながら、ワープロに一言一句違わずに文字にしていく。気が狂いそうになった。その時は、心の底から教授を憎んだ。だけど、何もしてない教授が、捕まるのはおかしい。 「確かに、嫌な所はあるけど。むしろ、めっちゃたくさんあるけど。でも、左藤先生は、売り上げを盗むとかそんなことをする人やない。だから」  うまく言葉にならない。お人好しと馬鹿にされるだろうか。 「ええと思うで。春政はそれでええねん。行こうや、片桐さんのところ」  アンナのことも、麻衣子のことも、恵のことも、入江のことも、何にもぼくはできてないけど、ぼくはまず教授を助けたかった。目の前のことばかりに流されている。でも、それがぼくなのだ。  警察署の前に来る。また、この中に入ると思うと憂鬱になる。でも、ぼくは警察署へ向うスピードを緩めなかった。すると、自動ドアが開いて片桐が出てきた。 「外で話しましょう」  ぼくを見つけ、そう言う。すぐに、片桐は歩き出す。立ち止まると、この人はだめになるのかもしれない。ぼくはその時、そんな風に思った。警察署から少し離れた喫茶店に入る。元々、うどん屋だったところを改装してできた喫茶店だった。木造和風の内装に、照明はシャンデリア。シャンデリアに喫茶店であることの全てを込めたらしい。間違っている気がするが、全然店の中になじんでいないシャンデリアが、なぜか生命力を感じさせる。 「で、真犯人でも見つかったの」  アイスコーヒーが二つ、テーブルに置かれている。 「いえ。でも、教授は、左藤先生はやってません」 「その左藤先生の鞄の中に、お店のお金があったんでしょ。それは、どう説明するつもり」 「誰かが、先生の鞄に入れたんです」  ぼくは適当に思いついたことを言った。 「適当に思いついたことを言わないで」  思いっきりばれている。ひけなくなったぼくは、さらに思いついたことを口にしていた。 「思いつきじゃありません。犯人は、わかってるんです。ただ、証拠がなくて」  証拠。ぼくはあることを思い出した。 「証拠ならあるんです。あの店の中に監視カメラがついてるはずです。そこに、先生の鞄にお金を入れた犯人が映っているはずです」 「だから、それも今思いついたんでしょ。本当に考えてたなら、そのビデオ持ってきてるもの」  ばれている。 「また、ばれた、みたいな顔しないの。ほら、行くわよ」 「行くって」 「大学よ。そのビデオは今も、お店の中を録画してるんでしょ」  コーヒーを一口だけ飲むと、片桐は席を立った。ぼくも真似をして一口飲むと、片桐を追った。振り向いて、恵にピースする。恵のおかんは最高だ。恵は、うなづく。  警察署の前に行くと、一台の車に近づいていく。片桐の車なのだろう。 「車の免許は」 「持ってません」 「彼女出来ないわよ」  助手席に座ると、シートベルトをする暇もなく出発する。 「琢磨さんを殺した犯人捕まえられそうなの。君のおかげ」  運転しながらしゃべる女性は、とてつもなくかっこよく素敵だ。恵も、大きくなったらこんなに素敵な女性になったのだろうか。 「少しは役にてて良かったです」 「まだ終わってないんだけどね」  片桐の話によると、教育大学の学生、大内が主犯だったらしい。大内は、金でその辺の悪ガキを集め、キムタクを襲わせたそうだ。一人につき10万円。10万円で、人を殺す。やりきれない。 「どうなってるの、最近の教育大生は」  年々派手になっていく学生。でも、見た目はチャラチャラしているが、先生になることに熱意を持っている学生も多かった。 「確かに、見た目はチャラチャラしてますけど、けっこう真剣に教育については考えてる学生が多いというか、大内みたいなやつは稀で」 「そう」  そっけない返事。もっと、教育大生の良さを伝えた方が良いだろうか。後ろから、アンナの声がする。 「そうじゃなくて、お金の話じゃないの。キムタクを襲ったのは、一人とか二人とかやないやろ」 「もしかして、琢磨さんを襲わせた連中に払った金がどっから来たかってことですか」 「そうよ。だいたい100万くらいになるわ」  100万円。ぼくですら、問題の大きさがわかってきた。 「それって。琢磨さんは、遊びなんかで殺されたんじゃなくて、何か理由があって殺されたってことですか」 「そう考えるのが普通じゃない。ま、今の学生にとって100万なんて、たいしたことないなら別だけど」  さらに、片桐は教えてくれた。 「琢磨さんを襲った連中は、殺してないっていいはってる。半殺しにはしたけどって。ホームレスの男を痛めつけてほしいって言われたから、そうしただけだって言ってたわ」 「その後で、弱った琢磨さんは死んでしまった」  片桐を見た。片桐の目に、怒りに満ちた感情が見える。 「意識を失った琢磨さんにとどめをさしたのよ。大内が」  どうりでキムタクが覚えていないわけだ。キムタクの話では、不良たちに襲われて気づいたら幽霊になっていて、走り去る車を見たということだった。意識を失っていた時のことは覚えていなかったのだろう。 「琢磨さんを不良に襲わせて、そいつらの仕業に見せかけようとしたみたい。100万円もかけてホームレスを殺す理由ってなんなの。大内はそれ以上話さないの」  言葉の底に、まだ片桐の理性によって沈められている怒りを感じる。これ以上、話すことはなさそうだった。もう少しで、大学に着く。これまでの出来事を整理することにした。キムタクは、大内に殺された。まだ、理由はわからない。殺される前、キムタクの情報によって警察は、麻薬の売人を一斉検挙している。書庫の貸出ノートに名前のあった大内。そして、入江。入江のことを片桐に話そうかと思ったが、麻衣子の顔が浮かぶ。 「これって、大学の中に入れるの」  片桐の声で考えるのをやめた。車は、正門をちょっと過ぎたところで止まっている。 「ぼくが入校許可証をもらってきます」  許可証をもらい、門に一番近い駐車場に車を止める。片桐と生協購買部を目指す。左藤先生の鞄に金を入れた犯人が映っていればいいのだが。  映像には、レジで順番を待つ左藤先生が映っていた。先生が最後尾。片桐を連れたぼくが行くとすぐに、防犯ビデオを見せてくれた。 「この時は、まだ盗んでいないみたいね」  ぼくはうなづく。購買部のレジは、二つある。夏休みのように利用者が減る時は、左の一台しか動かさない。お金や商品の受け渡しは、スーパーなどと一緒で右側。左藤先生は、ペットボトルを持っている。たぶん、お茶だろう。左藤先生の番になる。レジでお金を払い、お釣りを受け取る。ここまでは、映像に不審なところはない。そのままペットボトルを持ってレジを過ぎていく。そのまま防犯カメラから消えていくかと思うと、先生は立ち止った。学生に呼び止められたのだろうか。画面では確認できない。そこで、店員がレジチェックを始めた。そこに学生が一人やってくる。紙らしきものを見せ、何か言っている。店員はうなづいて、レジの下から紙を取り出し、学生の方を向いて俯いている。何か書いているようだ。その時だった。画面の左端から、手が伸び、お札が入れてあるコーナーから、お札を引き抜いた。すぐに、先生がいた所に目を戻すと、先生はいない。 「もう一回巻き戻してください」 「リモコン借りていいですか」  ぼくはテレビデオのリモコンを借り、問題の部分まで巻き戻す。そして、スロー再生のボタンを押す。左端から手が伸びると同時に、先生は画面から消えている。先生に話しかけていたやつも、この手を伸ばしているやつも誰かはわからない。ただ、先生が金を盗ったわけではないことは確かだった。 「これじゃあ、全然、犯人はわからないわね」  確かに、わからない。けれど、ぼくにはわかったことがある。この犯行は、監視カメラの存在を知っているものがやったのだ。 「これだけじゃあ、先生は」 「すぐには、帰ってはこれないと思うわ。これだけじゃあ、共犯者がいると思われるだけで」 「わかりました」  ぼくはビデオを止めた。収穫はあった。犯人は複数。監視ビデオがあることを知っている。近くには、入江がいた。  ビデオを、片桐に渡し店を後にする。 「ごめんね」  片桐が謝る。左藤先生のことだ。 「犯人は絶対に捜します」 「警察の仕事なんだからだめよ」 片桐が立ち止まる。ぼくを見る。 「無理はしないで」  ぼくの目を見ながら言ってくれる。片桐の優しい言葉がぼくの背中を押してくれた。許せなかった。誰が一番悪いのかは、まだわからないけど。悪いやつがいるのだ。  駐車場についた。車の助手席を片桐は開けてくれたが、ぼくは部屋が近いからと、ことわった。 「先に行くね。仕事の途中だったから」  無理して来てくれていたのだろう。心の中で何度もお礼を言った。ぼくは見えなくなるまで、片桐の車を見送った。 視界から消えると、ぼくは部屋に戻ろうと歩きだした。何歩かあるくと、ぼくは立ち止り振り返った。何か視線を感じたのだ。周りを見渡すが誰もいない。確かに、視線を感じた。ぼくは早足で部屋に戻った。  部屋の前に着くと、いつものようにドアの前でアンナと容疑者が入れ替わるのを待つ。 「ええ人やな、恵のお母さん」 「うん。お母さんのこと好きになった」 「そやな」 「だめだよ、お父さんがいるんだから」  ぼくは苦笑いした。 「アンナお姉ちゃんが、春兄ちゃんは、女の人にだらしないって言ってた。女にもてない人に限って、あ、あの女の人俺のこと好きやなって勘違いするって言ってたよ」  昔のロールプレイングゲームのゲームオーバーの音楽が頭の中で流れる。 「お母さんのこと好きになったら、恵とは絶交だからね」  恵になんと言えば一番うまくこの場を乗り切れるのか、ぼくには思いつかなかった。 「いいでぇ」  アンナの声が聞こえる。 「ほな、恵。恵のことは好きになってもええの」  ぼくは冗談のつもりで言った。 「恵は、春兄ちゃん好きだよ。でも、恵は死んでるからダメだよ。春兄ちゃんと手をつないだりしてあげられないから。ごめんね」  恵は俯いて、こっちを見なかった。そのまま、部屋の中に入っていく。胸の奥が、痛かった。  部屋に入ると、何やら騒がしい。アンナと恵が、二人でテレビのリモコンを操作しようとしている。ふれることができないようだ。店長は、あんなに簡単に書庫の文庫を持てるというのに。 「恵が見たいアニメがあるねんて」  ぼくはうなづいて、リモコンを取り、テレビをつける。そして、恵に言われた通りのチャンネルにした。しばらく一緒にテレビを見た。  夜に備えて、少し腹に何か入れておかなければいけない。ぼくは台所に移動した。冷蔵庫を開けて、卵が一個残っていることを確認し、1合だけご飯を炊く準備をする。アニメに夢中になる恵を置いて、アンナがやってくる。 「やっぱり、麻衣子さんのとこ行くん」  恵に聞こえないよう小声で言う。ぼくはうなづく。 「やっぱり、付き合うん」  ぼくはアンナを見た。ぼくが話そうとすると、アンナが続ける。 「そら、そうやんな。かわいいし、あの人。蒼井優に似てるもんな。そんな人から、好きって言われたら、女の私でも付き合いたいと思うし。なんなんやろな、私、幽霊やのに、アホやな」  アンナの目から、また光の粒が落ちだす。幽霊に、悲しみを止める術はない。ただ、その悲しみが全部出ていくのを待つだけ。 「私、泣き虫やな。こんなに泣くとは、思ってなかった。ごめんな、迷惑やんな、地縛霊とか言って、ずっとここにおって。うんざりしてるよな。女の幽霊がおったって全然うれしくないよな。私、これでも、外見にはけっこう自信あるねんけど。女の幽霊とか怖いだけやんな」  アンナがしゃべる間、ぼくはずっとアンナから目をそらさなかった。 「断るよ」  アンナが顔を上げる。 「なんで」 「なんでも何も、かわいかったらなんでも付き合うわけやないやろ。アンナかって、かっこいいから、誰でも付き合うわけちゃうやろ」  アンナがうなづく。 「付き合うために、浅野麻衣子の家に行くんとちゃうねん。確かめたいことがあるから、行くねん」 「確かめたいことって」  ぼくはアンナに、今日、考えたことを話した。 「もし、それやったら、危ないんちゃうん」 「まあな。危なくなったら助けてや」  ぼくは、米を洗い始めた。アンナはそれ以上、何も言わなかった。米を洗って、ジャーにセットすると、もうやることがないので、恵と一緒にまたアニメを見た。  ピーピーピーと米が炊けた音がする頃には、恵は寝ていた。 「幽霊も寝るんやな」 「一応な、もちろん、肉体的には疲れへんのやろうけど、やっぱり疲れる時は疲れるわ。頭と心を使った時とか」  寝ている恵を起こさないように、簡単な食事を作った。本当に簡単。白ご飯のおかず、スクランブルエッグ。もちろん、アンナには、「頑張って、料理覚えや」と言われたが、これはこれでおいしい。何より簡単なのだ。男の一人暮らしには手放せない料理だ。  卵1個分のスクランブルエッグはすぐになくなってしまう。残ったご飯は、お湯にパックに入った粉上のかつおだしを溶かしたものをかけて、かつおぶしを乗せる。そして、適当に醤油をたらし、食べる。これがまた、簡単でおいしいのだ。アンナは呆れて見ていた。容疑者は、さっきから静かにしている。恵を起こしてはいけないと、こいつはこいつなりに理解しているのだろう。  時間は、17時54分になっていた。そろそろいいだろう。麻衣子にメールして、家に行ってもいいか、聞く。返事はすぐに帰ってきた。オッケーという文字が、ハートの絵文字に囲まれている。気が重くなった。  母親は、パートに出ていていないという麻衣子の家についた。玄関で、まず迎えてくれたキムタクが教えてくれた。 「春さん、後で話したいことがある。春さんがにらんだ通り、この家はおかしい」  キムタクの話を早く聞きたかったが、左藤先生がさみしく留置所にいることを思うとそうもいかない。ぼくは家のチャイムを押して、麻衣子が出てくるのを待った。  ドアが開いて、麻衣子が出てくる。服装こそ昼と同じだったが、化粧が少し変わっていた。目もとと唇の色を抑え目にして、昼よりも大人びて見える。キムタクは麻衣子と容疑者ウサギになっているアンナとを、交互に見ていた。 「入って」  麻衣子が言う。ぼくは言われるままに麻衣子の家に入った。 「今は、お母さんはいないから、私たちだけです」  私たちだけ、という部分だけ、声が少し大きくなった。ぼくは何も言わず、自分の部屋に向かう麻衣子についていった。部屋には、前と同じでコーヒーとケーキが用意されていた。ぼくがコーヒーとケーキを見ていることに気づいて、麻衣子は言った。 「あ、前と一緒っぽいけど、違うんですよ。コーヒー飲んでみてください。インスタントじゃないですから。ドリップ式の。ちょっとだけ、レベル上げてみました」  そう言われて、ぼくはコーヒーだけ飲むことにした。コーヒーは好きだが、味までよくわからない。 「おいしいですか」 「うん」  言われてみれば、前よりおいしい気がする。 「ケーキも食べてみてくれませんか。手づくりなんです」 男は手づくりに弱い。一口だけではと、二口食べた。思ったより甘くはなく、おいしい。何から話せばいいのだろう。麻衣子に会うまでは、ちゃんと話せる自信があった。しかし、本人を前にすると言いだすのに、想像以上の勇気がいる。 「あの、まず聞いときたいことがあるんやけど」 「何ですか」  麻衣子が笑顔で見てくる。麻衣子はコーヒーカップを持ち、口に運ぶ。「熱っ」と小さく言いながら、コーヒーを飲む麻衣子を見ると話す勇気がしぼんでいく。勇気がすべてなくなる前に、ぼくは話し出した。 「店長のお店の売り上げ、最初に盗んだの、君やろ」  一瞬、麻衣子の動きが止まる。「え、どういうことですか」とキムタクが後ろで言う。ぼくのかわりに、アンナが説明してくれる。 「たぶん、クスリを買うためやろ。ほんまに聞きたいのは、今日のこと。なんで、教授の、左藤先生にあんなことしたんや」 「あんなことって」  コーヒーカップを、麻衣子が置く。 「今日の店の売り上げを盗んだってやつ。監視カメラのビデオ見せてもらった。そしたら、先生以外のやつが金取るのが見えた。でも、誰かわからへん。先生をわざわざ生協のレジの奥で呼びとめたやつも。あれは、監視カメラの位置を知ってるやつしかできひん」 「私が店長の娘だから、知ってるって思ったんですか。アルバイトの学生だって知ってるんだから、他に知ってる人はたくさんいるんじゃないですか」 「入江がおった」 「偶然じゃないですか」 「残念やけどな、最近の監視カメラは声も拾えるそうや。警察にある特殊な機械で再生すれば、できるそうや。先生が、ペットボトルのお茶を買った後、先生を呼び止めたのは、入江やろ。監視カメラのビデオは警察に渡した、もうじきわかる」  頭が熱くなってくる。のどがからからになる。思いつきがばれないことを祈った。 「本当に、その事には、関係ないんです。たぶん、入江君たちが勝手にやったことなんです」  その事には?「春さん」事態を把握したキムタクの声。 「その事にはって、どういうことなんや。入江は何をしようとしてんねん」 「私は・・・・私のことを、あの教授が聞きまわってたから。だから、入江君は、あの人を大学から追い出そうと。だって、もう私が誰も殺したくないって言ったから」  ぼくが考えている以上に事態は複雑だった。ここで退いちゃだめだ。やっと、掴みかけた事件の糸口。 「じゃあ、君は誰を殺したん。もう殺したくないってことは、以前に誰かを殺したってことやろ」  ぼくの言葉に、麻衣子が顔を上げる。完全に油断していた。  次の瞬間。ぼくの視界には、麻衣子の顔しかなかった。唇に、やわらかくて湿ったものの感触がある。麻衣子の唇だ。そのままぼくは押し倒される。ひどく、体が熱い。麻衣子をどけようとするが、体がぴりぴりとしびれている。頭では、麻衣子をどけなくてはいけないとわかっているのに、体が動かない。ひどく怖い夢を見た時、もがこうとしてもさけぼうとしてもうまくいかない。あの重たい感じと一緒だ。  なおもぼくの唇の上には、麻衣子の唇があった。口の中に、ぼくのものではない唾液が入ってくる。神経が、敏感になっている。麻衣子の唾液の中に、違和感があった。明らかに人の手が加えられた味。薬の味。クスリ。吐き出そうとするが、できない。可能性として十分に考えられたはずだ。麻衣子がクスリを売られていたのではない。クスリを売っていたのだ。自分の甘さを恨んだ。どれだけ体に訴えかけても、体は動かない。 「春さん、しっかり」  キムタクの声が聞こえる。わかっている。でも、動かない。甘かったのだ。まだ、入江と麻衣子につながりがある。先生の事件で、そこまではわかった。あとは、大内とキムタクの事件を麻衣子から直接聞き出す。全部、自分の思った通りにことが運ぶことしか考えてなかった。  やっと、麻衣子の唇が離れた。ぼくに馬乗りになっている麻衣子は机の上のはさみを手にした。麻衣子がぼくのお腹のほうに、はさみを持っていく。仰向けになっているぼくは顔すら動かせない。 「逃げて」  アンナの叫びが聞こえる。アンナの叫びが遠くなる。感覚が鈍っている。まずい。意識ははっきりしているのに、体の自由がどんどん奪われていく。お腹にひんやりした感触がある。さっきのはさみだ。ぼくは刺される痛みを覚悟した。  はさみの冷たさは、おなかの下のあたりから胸へと上がってくる。同時に、布がはさみによって切られる音がする。麻衣子はぼくの服を切り終えると、ぼくの体に直接唇を押しあててくる。体のあらゆる感覚が麻痺していくなか、体に直接来る刺激は異様なほど感じられた。麻衣子は唇を押しあてるだけでなく、ゆっくり舌でなめてくる。体が反応する。その時、わかった。動けないんじゃない。動かないのだ。ぼくの体はこれから何が起こるか知っている。だから、動かないのだ。体だけじゃない、ぼくの意識の一部がそれを望んでいるのかもしれない。  麻衣子が服を脱ぎ始める。ぼくは、目を閉じた。アンナとキムタクが何かを叫んでいる。きっと耳には入っているのだ。アンナたちの声は。だが、叫んでいる声はぼくの脳まで届かない。あったかいものが目の端から流れていく。ぼくは泣いていた。  麻衣子は手をとめることなく、ぼくのズボンを脱がしていく。アンナにだけは見られたくなかった。キムタクに、アンナを連れてここから出るように言おうと思った。しかし、もう声も出ない。体への直接の刺激だけが、何倍もの感覚になって伝わってくる。  伝わってくる感覚で、麻衣子が口に含んでいるのがわかる。幾筋もの涙が流れ、意識とは別に腰は動いてしまう。麻衣子が口を離す。ぼくの体はまだ動いていた。見ないでくれと、心の中でアンナに叫ぶ。麻衣子の体重がぼくにかかる。同時に今まで以上の刺激がぼくの脳に届く。麻衣子の体重がぼくから離れ、また戻ってくる度に、ぼくの体はだらしなく動いた。  その時、ドアが開く音がした。目を開き、眼球だけを動かしてドアの方を見た。麻衣子の動きが止まる。 「お母さん」  麻衣子の母親の手には、包丁が握られている。 「やめて、お母さん。お母さんだって入江君としてるじゃない。やめてよ」  麻衣子が絶叫している。ぼくは麻衣子の体を見た。至る所に、無数の切り傷がある。麻衣子の母親は何も言わない。ただ目だけが、異様な光を放っている。両手に包丁を握ると、母親が麻衣子めがけて、突進してくる。ぼくが目を閉じた時、キムタクの声がした。 「うっ」  という声の後に、カーペットの床に包丁が落ちる音。 「お母さん」  麻衣子の体重がぼくの上から離れる。 「春さん、立てるか」  キムタクの声がする。力を入れて、体が動くか確かめる。手を握ってみた。体がそれに応える。いける。ぼくは、足に力を入れて立ち上がり、ズボンをとった。ズボンを取るために片足に、体重をかけると途端に倒れそうになる。麻衣子の方を見た。体中の切り傷を隠すように、こちらを見ている。そのそばで麻衣子の母親が倒れていた。気絶しているようだった。 「春さん、早く」  キムタクの声に導かれ、ぼくは麻衣子の部屋を後にした。  麻衣子の家から少し離れるとぼくはずぼんを履いた。破れた服は仕方ない。このまま部屋まで行くしかない。  麻衣子の家から駅までの道を朦朧とする頭を抱えながら歩く。すると、恵がこっちにやってくる。すごい勢いで近くまで来ると、叫んだ。 「春兄ちゃんの部屋に、何人か男の人が来たよ。いないとか、どこにいったんだとか言ってた」  そこまで言って、恵が泣き出す。怖かったのだろう。 「ナイフを持ってた。春兄ちゃんを殺す気だよ。ダメだよ。春兄ちゃん、逃げて」  恵を抱きしめようとしたが、無理だった。手は、恵の体をすり抜けてしまう。 「ありがとう。恵のおかげで助かった。一緒に、逃げよう」  ちょうど、タクシーが来たので、それに乗り込む。暗くて良かった。シャツが真っ二つになっているやつを乗せてくれるタクシーなんてないだろうから。山城警察署を目指してもらう。頼れるのは片桐しかいない。  タクシーの中では、誰もしゃべらない。タクシーの運転手にはぼくしか見えないから。助かった。ぼくは極力アンナを見ないようにした。タクシーに乗って初めて、ひどく汗をかいていることに気づいた。服が体に張り付く。左手で、服が左右に離れないように押さえながら警察署に着くのを待つ。車内のクーラーが心地よい。早く、汗がひいてくれることを願う。  山城警察署と言ってから、バックミラーでちらちらこちらを見ている運転手に気づく。降ろされないことを心から願う。 「警察署に行って、兄ちゃんどうするん」  心臓が跳ねる。仕方なくぼくは正直に言う。 「知り合いに会いに行くんです」 「知り合いって誰」 「あの、片桐さんに」 「兄ちゃん、訳ありだな。うん、訳ありだ。そうだろ、兄ちゃん」 「はあ」  タクシーが止まる。 「ちょ、どうしたんですか」 「すまんな、これをかけさせてくれ」  助手席の前にある収納スペースからメガネケースを取り出し、運転手がかける。 「あ」  恵が声を上げる。 「お父さん」  恵が言う。運転手は、サングラスをかけて前を向き、再びエンジンをかける。この人が、恵の父親なら、片桐の旦那さんということになる。サングラスをかけるのは、片桐に見つからないようにということだろうか。  恵が死んで家を出ていたと聞いたが、こんなに近くにいたのだ。でも、こんなに近くにいるなら、どうして戻らないのだろう。  恵が話し出す。 「恵が、病院で入院してる時も、お母さんはほとんど病院に来なかったんだ。仕事が忙しくて。お父さんは、一緒に泊まってくれたけど。恵が死んじゃった時も、お母さん来れなかった。お母さんが来た時には、恵はこうなってて。お父さん、お母さんに怒ってた。それでも母親かって。いっぱい怒ってた。恵ね、やめてって叫んだんだけど、お父さんとお母さんには聞こえなかった。恵のせいなんだよ」 「そんなことないよ」  容疑者ウサギのアンナは、精一杯前足を広げて恵を抱きしめる。全然、前足は届いてなくて恵に張り付いてるって感じだけど、きっとアンナの気持ちは届いてると思う。 「恵が死んじゃった日が、お母さんがキムタクおじちゃんのおかげでいけないクスリを売ってる人たちをたくさん捕まえた日なの」  ええっ、とキムタクは大げさに声をあげる。本気なのか演技なのかよくわからない。 「お父さんがいない時に、お母さんが来てね、恵に言ったの。お母さんはこれからいっぱいいいことするから、そしたら、恵の悪い病気は逃げていくからって。お母さんは、恵のために一生懸命お仕事してたのに」  恵は、握り拳を作って泣かないようにしていた。生きてても死んでても、この世に存在することは大変なことなのだ。 「着いたよ」  運転手の声がする。 「警察の方にお金をお借りするんで、待っててもらえませんか」 「ああ、お金はいいよ。そのかわり、片桐さんによろしく。じゃあ」  と言って、ぼくがタクシーを降りた途端、行ってしまった。素直じゃないところがとてもよく似ている夫婦だ。 「お父さんが見つかったんだ。お父さんについていくっていうこともできたんだぞ」  ぼくは恵に言った。恵は首を振る。 「恵は春兄ちゃんのそばにいないといけないの。そんな気がするの、今は」 「ありがとう」  恵がいなかったら、ぼくはナイフを持った男どもに襲われていたかもしれなかった。しかも、あの時恵が眠らず麻衣子の家まで着いて来ていたらどうなっていただろう。ぼくは心から恵に感謝した。  警察署の自動ドアが開いて、片桐が出てくる。 「さっきのタクシーは」  息が上がっている。片桐がぼくに気づく。 「さっきのタクシーに乗ってきたの」  ぼくはうなづく。 「どうしたの、その服」  片桐がぼくの服を見る。前が真っ二つに切れている服。 「今から帰るところだから乗って」  さすが、話も早い。今日二回目の片桐の車。片桐がロックをはずすとすぐに助手席に乗り込む。やっと、安心できた。途端に眠気が襲ってくる。早く、ゆっくり眠りたかった。だが、たぶん、できないだろう。 「いったい、何があったの」  車を発進させて、片桐が言う。 「それよりいいんですか、あのタクシー追わなくて」  片桐が一瞬だけこちらを向く。 「知ってるの」 「はい」 「どうして。私も最近知ったところなのに。同僚が教えてくれたの。勤めてる会社と乗ってるタクシーのナンバー。帰ろうと思って、入口に来たらちょうどそのタクシーがあって。驚いてたら、一瞬でるのが遅れちゃった。で、どうして、あなたが知ってるの。私がこんな状態なのに」  ぼくは正直に言った。 「恵ちゃんに、聞いたんです」 「お兄ちゃん」  後ろで、恵が困っている。 「からかってるの」  明らかに、片桐は不愉快そうだった。 「怒らないで聞いてほしいんです」  ぼくはなるべくわかりやすくこれまで起こったことを話した。アンナこと。キムタクのこと。恵のこと。容疑者ウサギのこと。幽霊が見えるようになったこと。今日、麻衣子の家で起こったこと。片桐は適当に相槌だけうち、話を最後まで聞いてくれた。 「それを信じる証拠は」  ぼくは、キムタクの情報で麻薬の売人を一斉検挙した日付と、恵が死んだ日が同じだったこと。そして、恵に言ったという片桐の言葉を言った。 「今も後ろに、恵さんが乗ってます」  片桐はバックミラーで後ろを確認すると、首を振る。 「私にはだめみたい」  片桐は家路を急ぐ。後ろに座っている恵は、母の運転する車に乗れて幸せそうだった。ぼくにではなく片桐に恵が見えたらいいのに。会話がなくなると、ぼくは我慢できずに眠りに落ちていた。  体を揺らされている。わかっているけど、今目を開けたくなかった。まだ、しばらく寝かせておいてほしい。 「起きろー!」  体を起こす。立ち上がろうとして車の天井に頭をぶつけた。 「大丈夫。着いたわよ」  片桐はマンションに住んでいた。シートベルトをはずして、地下の駐車場に降りる。さっきの声は、アンナだろう。 「ピース」  とアンナは前足を付き出す。二本の指を残して、他の指が申し訳程度に曲がっている。ピースと言わなければピースサインだと分らない立派なピースだ。 「恵は着いて来てるの」 「はい。恵ちゃんも、琢磨さんも、それからウサギの姿をしたアンナも」  恵は、片桐の手を握っている。 「片桐さん、右手あったかくないですか。恵ちゃんが握っているんですけど、今」  片桐が右手を上げようとする。 「ああ、そのまま」  右手を見つめる片桐。手を握る恵の手に、片桐の左手が添えられる。恵が恥ずかしそうに笑う。恵の笑顔を見て思う。こんなにかわいい娘が病気で死んでしまったら、やり場のない怒りをお互いにぶつけるかもしれない。片桐は少しの間だけ目を瞑った。ぬくもりは感じただろうか。 「よし」 「どうしたんですか」 「コンビニ行くぞ、藤原」  え、呼び捨て? 「ほら」  片桐が左手を出す。ぼくはその手を握り返した。 「作戦を立てないとね。そのためには、酒と酒がいるわ」  とりあえず、酒がほしいようだ。細かいところに、片桐のテンションが上がっている痕跡が見られる。 「あの」 「何」 「服はこのまま」  真っ二つの服を片桐が見る。 「パリコレだと思えば」  思えるか。片桐は一人笑って、地下の駐車場を歩いて行く。 その背中を見ながら、真ん中に恵がいて、恵の両手は片桐とさっきのタクシーの運転手がつないでいる。そんな三人をぼくが見ている。そんなことが起こればいいのに。そんなことを思った。恵は片桐の手を握ったまま、こっちを振り返り手を振っていた。  きれいな女性ほど酒癖は悪いのかもしれない。 「藤原、てめっ、このやろ、飲めよ。バーカ」  眠りながら、まだぼくに酒を飲ませようとする片桐。片桐のそばで、恵も幸せそうに眠っている。嬉しい時だって、頭と心は使うのだ。この単純な事実。それを見るだけで幸せな気持ちになるのは、酒の力ばかりではないだろう。キムタクも寝ている。いびき付きで。  1時間半ほど、キムタクの話を聞き、明日からの予定を決めた。その後、3時間ほど飲みまくった。今はぼくとウサギのアンナが起きている。アンナは何も言わないから、本当は寝ているのかもしれないけど。 「大丈夫」  アンナの声が部屋に響いた。ぼくはうなづいた。 「どんな風に声をかけたらいいか。色々考えてんけど、思い浮かばんかったわ。かわいくないな、私は」 「色々考えてくれるだけでうれしいけどな」 「アホ。全然似合ってないで、その台詞」 「うわ。かわいくないな。ほんまに、かわいくないわ」 「ウサギやしな」 「なんやねん、それ」 「私な、ほんまは春政のそばにおったらあかんねん。私が見えるっていうことは、春政」  ぼくはアンナの言葉を遮った。 「あの間中。浅野麻衣子に襲われてる間中な。ずっと、アンナのこと考えてた。アンナには絶対見られたくないって思った。でも、見てたやんなぁ」 「うん」  ほとんど、アンナの声は聞こえなかった。 「わかってるで。なんで、アンナが見えるようになったか」  もうすぐ、ぼくは死ぬから。言葉にはできなかった。ずっと考えないようにしていたけど。半分、向こうの世界に足を踏み入れているから、アンナたちが見えるのだ。そして、今回のこの一連の事件がそれと関係している。ぼくはアンナの言うとおりアホだけど、それぐらいはわかる。 「ごめんな」 「なんでアンナが謝るねん。でも、地縛霊っていうのは、無理があったんちゃう」 「そやな」  ぼくとアンナは笑った。 「アンナにお願いがあるねんけど」 「ええで、なんでも言って」 「なかなかのチキンハートやからさ。やっぱ、わかってても怖いねん。そん時が来るまで、そばにおってな」 「うん。そばにおる。春政のそばにおるよ」  ぼくは死ぬこととアンナに会えたことを思った。死ぬからアンナに会える。実感はそんなに湧かないけれど、現実だということはわかっていた。また、アンナの声が部屋に響く。 「なぁ」 「何」 「泣いていい?」 「ええけど。もう、あれやで。泣き虫アンナ確定な」  ぼくの言葉を待たず、アンナは泣いた。アンナはどれくらい泣いてただろう。泣き疲れてアンナが眠るまで、ぼくはずっと起きていた。  どうやら最後まで寝ていたのは、ぼくのようだった。ばっちり片桐に蹴り起こされた。 「いつまで寝てるの、藤原」  完全にもう呼び捨てだ。 「憧れてたのよね」 「何がです」 「ドジな後輩と組まされるキャリアな女刑事」  初めて片桐と会った警察署内のカフェスペースを思い出す。あれよりましか、と思うことにした。 「真実って言葉があるでしょ」  なんだいきなりと思ったが、返事をする。 「はい」 「真にと実にって言葉がくっついてるじゃない」 「はぁ」  ぼくはまだ頭がぼうっとしている。 「ものすごく単純に考えたら、英語のVeryが二つ続いてるってことになるでしょ」  ベリーベリー。心の中で音声化してみる。なんだか、芸人のコンビ名みたいだ。 「それで、何が言いたいんですか」 「後に続く言葉で、良くもなるし悪くもなるってこと。本当にいい場合もあるし、本当に悪い場合もある。真実を知るってそういうことだと思うの。大丈夫」  今から、ぼくたちは真実を確かめに行く。その覚悟がぼくにあるのか。片桐はそれが知りたいのだ。 「大丈夫です」  ここまで来たら、進むしかない。アンナを見た。アンナがぼくの右肩に乗る。 「その前に、ユニクロにでも行って、シャツを買いましょ」  ぼくはまだ前が裂けている服を着ていた。  ユニクロによって、ぼくの下宿先に向かう。無地の黒のTシャツを片桐が買ってくれた。部屋の前に着くと、いつものようにドアの前で待つ。 「ねえ、なんですぐに入らないの」 「だから、言ったじゃないですか。アンナと容疑者ウサギが入れ替わってるんです」 「意味が分かんないんだけど」  ぼくも細かい原理はわからない。ただ、そうなってるものは仕方ない。 「いいよ」  アンナの声がする。アンナの声はひどく怯えていた。ぼくは慌てて中に入った。  部屋はこれでもかというほど荒されていた。カーテンやベッドのシーツはびりびりに切り裂かれている。部屋にあった本も破かれ、無事なものは一冊もなかった。机は足が一つ破壊され、傾いていた。その上に、これ以上首を突っ込むなと、赤い字で書かれた紙が置いてある。壁中に死ねとか、殺すという文字が書かれている。 この様子を、容疑者はずっと見ていたのだ。何を思ったのだろう。 「ひどいね」  恵が言う。 「部屋にいたら殺されてたかもしれないって話、本当みたいね」  片桐もこの部屋の様子に驚いているようだ。アンナは腕を抱えてこの部屋の様子を見ている。 「とりあえず、署に連絡しておくわ。勝手に見られて困るものとかある」 「特には」  すぐに、片桐が山城警察署に連絡してくれる。ぼくらは次の場所に向かった。  片桐が運転する車の中で、ぼくは昨日のキムタクの言葉を思い出していた。宴会が始まる前のことだ。宴会と言っても、ひたすら片桐が暴れていただけだが。キムタクは、浅野麻衣子の母親、浅野麻美の様子を詳しく語ってくれた。  まず、麻衣子と麻美の間に会話はほとんどないということだった。ぼくが店長の家から帰った後、麻美はずっとメールをしていたらしい。そして、しばらくすると家を出た。向かった先は、高級レストラン。麻美が待っていると、男がやってきたという。まだ、20代後半のその男はホストで、麻美はその男が働くホストクラブの常連だという話だ。かなり前から、麻美はホストにはまっているらしい。ぼくはよくわからないが、同伴というものだということだ。  店に着いた麻美は、とても普通の主婦とは思えなかったという。高いお酒をホストが望むままに注文し、何人もの若手のホストを周りにおいていた。ホストクラブで3時間ほど過ごすと麻美は店を出て、タクシーに乗り込み隣の街に向かったという。安アパートが並ぶ一角で麻美はタクシーを降りた。藤林荘というアパートの二階の一番奥の部屋に向かったという。その部屋にいるのは、美術家の卵という青年。麻美はまず自分をその男に抱かせたらしい。その青年は、どこかの美術大学の大学院に行っているようで、学費・生活費すべて麻美が出しているということだった。二人の会話からかなり長い間、そういう関係にあるようで、店長が死ぬ前から麻美はそんな生活をしているらしいということがわかった。  ただの主婦にそんなお金があるわけがない。輸入物の雑貨屋でパートをしているとしても、せいぜい月に、7、8万がいいところだろう。考えられることは一つ。クスリだ。ガンジャに限らず、ソフトドラッグなら輸入物の雑貨屋であれば手に入れるのはたやすい。麻美はそのままその美術家の卵の部屋に泊まり、翌日は雑貨屋のパートに行ったという。働く様子は普通のパートとなんら変わりはなかったらしい。パートが終わるまでは張りついても仕方がないということで、キムタクは麻衣子の家に戻ったということだった。  キムタクが一日、麻美のことを見た感じではクスリを売っている様子はないということだった。だとすれば、売っているのは麻衣子ということだろう。でも、どうやって。考えられるのは、昨日の左藤先生のことだ。先生が何かを知っている。昨日の麻衣子の言葉が蘇る。 「だって、もう私が誰も殺したくないって言ったから」  すでに、誰かを殺したということか。キムタク。ぼくは振り返ってキムタクを見る。後部座席では、アンナと恵とキムタクでしりとりが行われていた。もし、それがキムタクのことだったとしたら、あの麻薬の売人の一斉検挙と麻衣子が関わっていることになる。  左藤先生は、麻衣子のことを知っていると言っていた。同じ大学にいるのだから見たことぐらいはあると思うが、そういうことではなさそうだった。 「ねえ、藤原」 「はい」 「幽霊って、物を触れるの。藤原の話だと琢磨さんが麻美って母親を倒したんでしょう」 「そうです」  後ろの三人が、しりとりをやめてこちらを見ている。 「どうなんですか、キムタク」 「春さん。それがね、咄嗟のことであんまり覚えてないんやなぁ」  キムタクが頭を下げる。 「どう見ても誰もいない後ろの席に話しかけてる変な人なのよね」 「お母さん、そんなことばっかり言ってたらだめですよ」  恵が片桐を指差す。ぼくとアンナとキムタクが笑う。 「何なの」 「恵さんが、そんなことばっかり言ってたらだめですよって」 「藤原の一人芝居だったら、ぶっとばすからね」  昨日もキムタクの言葉を片桐に伝えるのは大変だった。 「もうすぐ、目的地ですよ」  片桐の車についているカーナビを見ながら言う。美術家の卵にこれから会いに行く。  車が止まる。藤林荘についたのだ。ぼくはキムタクを見る。キムタクがうなづき、車から出る。 「お願いします。琢磨さん」  前を向いたまま片桐が言う。うれしそうにキムタクが笑った。 「いつも幽霊が捜査に加わってくれたら、楽なのにね」 「でも、いつまでも死んだ人には頼ってられないですよ。この世は、やっぱり生きてる人間でなんとかしないと」 「言うわね」  生きてる間に。ぼくはどこまでやれるのだろうか。すぐにキムタクが帰ってきた。 「春さん、やつは今部屋で寝てる」  ぼくは片桐を見た。うなづく。片桐がすばやく車から降りる。ぼくもそれにつづいて車を降りた。片桐に離れないように階段をのぼる。茶色い錆の色がところどころ見えるドアの前を足早に過ぎていく。いくつか植木鉢が置かれている。その下に鍵が置いてあったりするのだろうか。  目的の部屋の前に着いた。ここにいる住人が藤崎という人物だと消えかけた表札が教えてくれる。片桐がチャイムを押す。返事はない。もう一度押す。 「はあい」  寝起きの男の声がする。ドアが開くと、閉まらないように開いたドアの隙間にすばやく片桐が入る。 「ちょっと、あなた何なんですか」  片桐が警察手帳を見せる。 「警察です。突然ですけど、麻薬取締法違反してません?」  片桐が笑う。藤崎がひるんだすきに部屋に入る。ぼくも続く。すぐに、藤崎が止めにはいる。 「刑事さん、ぼくはそんなことしませんよ」 「そうなの?じゃあ、この部屋の中に残ってるこのにおいは何」  藤崎は驚いたようにいくつかの場所に視線を走らせる。 「藤原」 「はい、先輩」  藤崎の視線が示した場所を探る。ぼくが探した場所は、MDコンポが置いてある棚。本棚用のカラーボックスを横に倒して、その上に置いてある。そこに黄色いフエキ糊の入れ物が二つ置いてあった。不審に思ったぼくは手にとって蓋を開ける。一つ目は、白いフエキ糊が半分くらい残っていた。もう一つを開ける。ぎりぎりいっぱいにフエキ糊が入っている。ぼくは片桐を呼んだ。 「先輩、これ」  ぼくはぎりぎりいっぱいに糊が入っている入れ物を片桐に渡した。ぎりぎりまで糊が入っているのに、表面はぼこぼこしていた。明らかに誰かが触っていた後がある。片桐が見ている前で、糊の中に指を沈める。すぐにそれの感触があった。ぼくは指からそれが逃げないように注意しながら引き抜く。小さな透明の袋の中に白い粉が入っているそれが出てくる。片桐が、あごで洗面台を示す。ぼくは洗面台で糊を落とし、片桐にそれを渡した。 「これは何ですか、藤崎さん」  藤崎は青い顔をして立ち尽くしている。 「僕じゃないんだ」  呟くような声が、藤崎の口から洩れてくる。 「何を言ってるの。これはあなたの部屋から出てきたのよ。どういうことかわかるでしょ」  力のある声が、狭い部屋の中に響く。 「だってしょうがないじゃないか。あんなおばさんを・・あんなおばさんを・・」  藤崎の口から唾液が垂れる。藤崎はクスリが見つかったことより、クスリを見たことで興奮しているようだ。 「あんなおばさんを抱くには、クスリが必要なんだ。そうでしょ。わかるでしょ。クスリがなかったら、あの人を抱くなんてできないんだよ」  藤崎の目の焦点は定まっていない。藤崎の口は半開きのままだ。唾液をぬぐって、凛としていれば誰しも振り返る顔だったろう。入江の健康的な顔の良さとは違う病的な美しさが藤崎にはあった。透明感のある肌に、すこし垂れた目。ハーフのような顔立ちをしている。麻美が、手元においておきたい気持ちがわかった。 「取引しよっか」  藤崎が片桐の方を向く。 「そっちは取引する気あるの。そのおばさんのせいで一生を棒に振る気なんてないんでしょ」  藤崎の目に光が戻るのがわかる。 「どう。乗るの、乗らないの」 「何をすればいいんでしょうか。何でもします」  さきほどとは、別人のようだ。 「まず、どうやって浅野麻美がクスリを手に入れていたかについて教えて」 「雑貨屋で手に入れてるそうです」 「どうやって」 「そこまでは。警察にばれないようにうまくやってるとは言ってました」 「そう。じゃあ、どこで浅野麻美と知り合ったの」 「昔、ホストクラブでバイトしてたんです。大学院の授業料のために。そうしたら、麻美さんが店にやって来て。自分が面倒みてやるって」 「それで、体を売ったのね」  藤崎の眉がつり上がる。唇が少し震えている。 「他に何でもいいから、浅野麻美が言ってたことで気になったことを教えて」 「えっと」  藤崎が考え込む。その間に、部屋の中を見回した。人の体以上の大きさの絵もある。美術の美なんて全然わからないけれど、藤崎の顔ほど才能があるとは思えなかった。 「あの、麻美さんは、このクスリが日本を変えるんだって言ってました。自分はいいことをしてるんだって。その理由を話してくれたんですけど、難しくてよく覚えていません。ただ、僕はそれを聞いてクスリによって日本がよくなるんだったら、自分も使っていいんだって思いました」 「浅野麻美とこういう関係になってどれくらいなの」 「だいたい一年半くらいだと思います」  店長が自殺するより前だ。 「はい。御苦労さん」  片桐が藤崎に手錠をかける。 「え。刑事さん。これって」 「取引って言ったでしょ。情報を提供してくれたかわりに、私の暑じゃ一番優しい取り調べをしてくれる刑事さんに取り次いであげるわ」  藤崎はそのまま床の上に崩れ落ちた。片桐が携帯で連絡を取っている。  他の警官がやってくるまでに、ぼくと片桐はあと4つ。クスリの入った袋を見つけた。藤崎は警官二人に肩をもたれ、部屋を出て行った。ぼくたちも藤崎の部屋を後にする。 車に戻ると、他の三人と一匹は後部座席で大人しく待っていた。 「どうだったの」  恵が聞いてくる。 「思ったより収穫がなかったわ。ねえ、片桐さん」 「そうね。仕方ないわ、次に行くわよ」  ぼくはアンナを見た。アンナは容疑者ウサギを抱いてじっとしている。変な表現かもしれない。でも、その時のアンナの顔色は悪かった。ぼくはアンナに声をかけた。 「大丈夫、アンナ。何かしんどそうだけど」  片桐がこっちを見たが、何も言わなかった。 「大丈夫やで、春政。もっと、明るくしよか」 「ううん、無理せんでええよ。もうすぐで終わるし、がんばろな」  アンナがうなづく。もうすぐで終わる。それはぼくの願いでもあった。 ぼくは片桐に左藤先生に会いたいと告げた。片桐は何も言わず車を発進させる。 「ごめんね、まだ先生を出すことはできないの」 「わかっています。浅野麻衣子のことで、教授に聞きたいことがあるんです」  車の速度が上がっていく。  透明な壁越しに先生と対面して座る。先生の顔色は良くて意外に元気そうだった。 「先生、お元気そうで」  ついつい言葉にしてしまった。 「君はわざわざ私をからかいに来たんですか」 「先生、入江君の彼女について聞きたいことがあるんです」  先生は、驚いた顔をする。 「そんなことはもういいよ。私の鞄にお金を入れた犯人を探してくれ」 「そのためなんです。どうして、入江君の彼女が気になったんですか」 「どこかで会った気がしたからだよ」 「先生覚えてますか。前に先生の部屋で会った時、先生は他大学の学生ですかって聞きましたよね。どうしてですか」 「それは、私が他大学でも講義をしてるから、そこで会った気がしたからだよ」 「それはどこの大学ですか」 「山城大学。前に君に言ったことなかったかな」  元帝大。山城大学。同じ山城を大学名に入れているが、山城教育大学とでは偏差値が全然違う。もちろん、向こうが断然上。ぼくはつきそいの片桐に、目で帰りましょうと合図した。片桐がうなづき、立ち上がる。それを見てぼくも立ち上がる。 「まさか、もう帰るんじゃないだろうね」 「先生のためです」 「せめて、あと5時間」  おいおい。 「じゃあ、6時間」  増えてる。 「先生。必ず真犯人を見つけますから、待っててください」 「ウサギはさみしいと死ぬんだぞ」  背中越しに、とても後二年で大学を退官される人の言葉とは思えないものを聞きながら、ぼくは面会部屋を出た。  キムタクの情報で、一斉検挙した麻薬の売人の集団。そこに山城大学の学生がいなかったか、片桐に調べてほしいと頼む。 「調べるまでもないわ。いたわ。大人の事情で、マスコミには発表してないけど」 「どうだったんですか」 「じゃあ、次はそいつに会ってみる」 「いいえ」  代わりにぼくは山城大学に行きたいと言った。片桐は了解してくれる。 「山城大学に行く前に、ネットをしたいんですけど」 「車にノートパソコンがあるから、それでいい」 「ありがとうございます」  すぐに、片桐の車へ向った。片桐のパソコンにはすでにPCカードがセットされている。電波が入りやすいところに移動し、車を止めてくれる。  ぼくは、まずYAHOOの検索画面を開いた。浅野麻衣子と打ち込む。スペースを開けて、卒業論文と打ち込んだ。もしまめな教授なら、自分の担当した学生の卒業論文一覧を乗せているかもしれない。 画面が真っ白になり、検索結果が表示される。あった。山城大学の二年前の卒業論文一覧に浅野麻衣子の名前がある。卒業論文の題名を見る。「マリファナ合法化による日本経済の変化に対する考察」 麻薬を合法化するなんて考えたこともなかった。ガンジャは一部の国では、合法もしくは非合法でも、暗黙のルールとして見逃されていると聞いたことがある。ぼくはその画面を片桐に見せた。 「浅野麻衣子は、山城大学卒業後、今度は教育大学に入学してたんです。そして、これが山城大学で書いてた卒業論文です」 「最近、多いのよ。条件付きでソフトドラッグを合法にするべきだとかいう連中が」 「教育大学の学生にもそんなやつがいるのかもしれないですね」 「あるいは、そんな考えを吹き込まれた連中がね」 「経済学部の稲葉教授のゼミで書いたみたいです」 「とりあえず、行ってみる。それでいいのね」 「はい」  車は山城大学を目指して動き出す。  稲葉教授は、40代の前半で教授というよりはエリートサラリーマンという雰囲気があった。 「大学の先生って、この世界でしか生きていけない人が多いでしょ。でも、今の時代それではだめだと思うんです。私ならこの世界でなくても生きていける」  別にそんなことは聞いてない。ぼくは左藤先生の顔を思い出した。確かに、一般企業で働くには向いてなさそうだ。でも、それがどうしたというのだろう。自分が生きていく場所を見つけられたなら、それでいいはずだ。はっきりしているのは、この稲葉という教授をぼくは好きになれないということだった。片桐が事情を話して、麻衣子の卒業論文を借りた。何かわかることがあるかもしれないと思い、何個か質問してみる。 「浅野麻衣子さんはどんな学生でしたか」 「真面目な学生でした。その論文だって、内容は過激だが学生とは思えない出来だ」  質問を変えて、麻衣子のことを聞き出そうとしたが返ってくるのは、麻衣子が非常に優秀な学生だったということだ。 「非常に優秀な学生でした。ただ、不思議だったのは他の大学に入りたがってたことです。就職先の面倒を見てやるって言ったんですが、断られました。こう見えて、それなりの人脈はあるんです」  だから聞いてないって。片桐も同じことを考えているようだ。さっきからメモを取るためのペンで、ペン回しをして遊んでいる。どう切り上げようか考えているようだった。 「最後に、麻薬の売人としてここの大学の学生が逮捕されたと思いますが、稲葉先生のゼミにいる学生ではなかったですか」 「いくらゼミ生でも、そこまで面倒みきれないよ」  言葉に動揺が見える。 「真面目そうな学生だったのに。言っておきますが、私は関係ないですよ。馬鹿な学生がやったことだ」  そんなに汗は出ていないのに、高級そうなハンカチでおでこを拭う。それなりの人脈で、学生の関与をマスコミに漏れないようにしたのはこの人かもしれない。真面目そうな学生だった、か。たぶん、本当に真面目な学生だったのだ。そして、ぼくの考えが正しければ真面目だったから、利用されたのだ。  ぼくたちは稲葉教授に礼を言い、研究室を後にした。廊下に出ると、暖かい空気に体を押されたようになる。蛍光灯がついていても暗い大学の廊下を歩きながら、麻衣子が書いたという論文を読み始めた。  麻衣子の論文の内容は、ぼくが考えたこともない世界だった。 彼女はまず日本の経済が行き詰っていることを指摘する。確かに、なかなか大きくは取り上げられないが、年間でかなりの餓死者が日本でも出ている。そして、一部の人間だけが富を得、残りの人間は毎日なんとか食べることのできるお金のために過労死寸前まで働いている。それをマリファナ合法化によって打破するというのだ。国家がどれだけ麻薬の取り締まりを強化しても、現実問題としてクスリは絶対になくならない。それを売る者、買う者が絶対に出てくる。そうであるなら合法化して、日本の経済に役立てた方が良いのではないかというのが麻衣子の考えである。 クスリが非合法のままでは一部の非合法団体(表向きは、普通の団体として活動をしているかもしれないが)が、たくさん稼ぎ富を得るだけである。経済はお金が循環してこそ潤う。しかし、クスリに使われるお金は、アングラマネーとして消えていくだけ。日本経済のマイナスになることはあっても、プラスにはならないのである。公にクスリを、特に依存性の少ないとされるソフトドラッグ、主にマリファナを流通させることで、アングラマネーとして消えていくお金を日本の経済の中で循環させる。そして、クスリが公に出回れば課税もできるので、日本の国家も潤う。まさに、今の日本経済を回復させる特効薬になると言うのである。 また、他の先進国に先駆けて合法化を行うことで途上国からの輸入ルートを確保し、関連企業を設立させることで雇用促進にもつながるというのだ。しかも、日本の経済だけでなく、途上国の経済発展にも寄与するという。途上国で生産されるクスリの正式な輸出入ルートや関連企業などが立ち上がれば、途上国の経済問題の一助となるというのだ。 では、なぜ合法化できないのか。麻衣子の考えによれば、人体への影響の危惧よりもそのことを隠れ蓑にしながら、合法化を阻もうとする人たちがいるのではないかということだった。つまり、クスリが非合法であるがゆえにその恩恵に預かれる人たちがいるということだ。 人体への影響に関しても非合法であるが故に劣悪なドラッグ出回ったり、公に治療が受けられない人がいるなら、国で管理した方が良いというのだ。クスリを利用する適量を医者が決め、きちんと管理する。そうすれば、ソフトドラッグであるマリファナ、つまりガンジャは、日本人の疲れた心を癒すために働き経済にも潤いを与えるすばらしいクスリになる。これが麻衣子の結論だった。 壮大な夢物語。これがぼくの感想だった。片桐にも論文を渡し、読んでもらう。ぼくたちは腹ごしらえもかねてファミレスに来ていた。ここならゆっくりいられるし、周りがうるさい分他の人には見えないアンナたちとしゃべっていても、そんなに目立たないからだ。   ぼくと片桐が読み終え、アンナたちに内容を説明し終える頃には空は赤くなり始めていた。入った時に頼んだアイスコーヒーの氷はとっくに解け、グラスの底に濁った水が溜まっている。片桐の前にあるアイスコーヒーのグラスも同じことになっていた。 「どう思う」  片桐が聞いてくる。 「でっかい夢物語ですね」 「本当にそう思う?けっこうよくできてる論文だと思うけど」 「片桐さんはどう思ってるか知りませんが、クスリはだめです」 「どうして」 「ダメやと思うからです」 「何それ」  片桐はストローをくるくる回している。 「クスリって、病気を治すために必要な時だけ飲むものじゃないですか。それ以外の時に、クスリを飲むことを認める社会なんてそれ自体が病気です」 「そんなに簡単に、何でも割り切れるもんじゃないんだけどね」 「すみません」 「ううん。何でも複雑に考えてれば大人だって、昔は思ってた。でも、ダメなものはダメ。それで、それだけでいいんじゃない」  片桐が席を立つ。ぼくも続こうとする。片桐が振り返る。 「あ、今までおごってあげた分、出世払いだからね」  片桐が歩き出す。 「なあ」  アンナが声をかけてくる。 「春政って出世できるん」  それはぼくが一番気にしていることだ。 「それは言うたらあかんて」 「出世できたら、デートしたげるしな」  そう言ってアンナは店を出て行く。少し元気になったようで良かった。ぼくも後に続いた。  助手席に座る。車内の空気が張り詰めている。次は麻衣子の家だ。 「直接、行くの」  ぼくはうなづきながら、バックミラーでアンナを見た。また、あの部屋に戻る。考えただけで吐き気がした。しかし、行かなければならない。警察が本格的に動き出す前に。藤崎が捕まった。麻美のことがわかれば、麻衣子の家は捜索され、麻衣子の部屋からもクスリは見つかるだろう。それでは遅いのだ。 ぼくはあの部屋を出る時に見た麻衣子の体を思い出す。体中に残る切り傷。胸やお腹の周辺におびただいい数の傷があった。彼女はもしかしたら誰かに救いを求めているのかもしれない。 「ここまで来たら、真実を知りたいんです。それがめっちゃ良くても悪くても」 「いざとなったら、恵子さんと春さんは俺が守るしな」 「そういえば、キムタクだけ、物にさわれるもんね。あと、あの店長さんも」  アンナが容疑者の顔を潰したり引っ張ったりしている。 「なんでかなぁ」  恵が腕組みをする。幽霊でも幽霊同士でわからないことがあるらしい。ぼくがずっと後ろを見ているので片桐が言う。 「どうしたの。また、何かしゃべってるの」 「どうしてこの世のものが触れる幽霊と触れない幽霊がいるのかって」 「ポルターガイストってことよね。できる幽霊とできない幽霊か」  ポルターガイスト。キムタクや店長がものを持っていたら、ぼく以外の人間にはそう見えるのだ。もっと怖いものだと思っていたのに、ちょっと拍子抜けだ。  店長とキムタクの共通点はなんなのだろうか。 「アンナと恵ちゃんは、触れないんですよ。でも、琢磨さんは触れて」 「不思議よね。琢磨さん」 「はい」  キムタクが背筋を伸ばして大声を張る。 「危なくなったら助けてね」 「もちろんであります」  キムタクが敬礼して答える。 「何て言ってるの。琢磨さん」  ぼくはキムタクの様子を伝えた。少しの間、車内に笑い声が響く。ぼくは車の窓から、空を見た。驚くほどに深い赤色の空。空は赤くなっては夜になる。その繰り返し。なのに同じ赤色にはならない。夕焼けは驚くほどきれいな時もあれば、ちょっと怖い時もある。この夕焼けは後者だ。雲がないからだろうか。赤い空が意思を持っているように動いているように見えた。  麻衣子の家から少し離れた所に車を止める。藤崎の時と同じようにキムタクに家の中を調べてきてもらう。ぼくはその間に、パソコンを借りた。やれることはやっておきたい。警察以外で、頼りに出来るのはそこぐらいしかなかった。昨日乗ったタクシー会社のホームページにアクセスし、メールを送る。麻衣子の家の住所と30分後の時間に来るように指定し、そして、運転手を指名しておく。送り主の名前は、片桐恵子といれた。  それが終わるとキムタクが帰ってきた。片桐に見えないように、ページを閉じシャットダウンさせる。車のデジタル時計が、18時17分を示している。家の中には麻衣子一人だそうだ。そう片桐に告げる。片桐は車を発進させ、麻衣子の家のそばで止める。ぼくたちは車を降りた。キムタクが言う。 「母親の姿が見えない。春さん、もう少し待ったほうがよくないかい」 「琢磨さんが、もう少し待った方がいいんじゃないかって」  片桐が少しだけ考える。でも、考えているのはぼくと同じだと思った。 「行きましょう。いざとなったら、私がいるし、それに」  片桐が服の上に手を当てる。ぼくはうなづく。 「ちょっと待っててくれ」  キムタクが麻衣子の家へ入る。 「琢磨さんが、鍵を開けてくれます」 片桐に言う。 かすかに、鍵が開く音がする。片桐は音を立てないように家の門をあけ入っていく。キムタクがはずしてくれたドアをゆっくり開ける。中に入ると、キムタクが待っていた。 「物を触る練習をしておこうと思って。こつさえつかめればなんとかなりそうだ」  どんなこつがあるのかはわからないが、頼もしい戦力だ。ぼくは指で麻衣子の部屋を指差す。麻衣子の家は、玄関を入って左側がリビングに続く廊下。右が階段になっている。音を立てないように片桐と二人で階段をのぼる。  麻衣子の部屋の前まで来る。片桐がゆっくりドアのノブを回す。鍵はかかっていないようだ。片桐がうなづく。一気にドアを開け、麻衣子の部屋に入る。麻衣子の部屋に入ると鍵を閉めた。麻衣子は白い粉を、小さい袋に入れている最中だった。驚いた顔でこちらを見ている。 「ごめんね」  そう言うと、すばやく麻衣子の背後にまわり左腕をねじる。麻衣子が悲鳴を上げそうになった時に、その左腕を持ち上げた。痛みを和らげようと反射的に立ち上がろうとする麻衣子の左手にすぐに手錠をかけ、すばやく右腕にもかける。麻衣子は後ろで手錠をかけられた状態になっている。麻衣子は観念したように、ベッドに座った。 「これ」  ぼくは麻衣子に、稲葉教授から借りた卒業論文を見せる。 「入江にクスリを売ってもらってたんじゃなくて、売ってたんやろ」  麻衣子はじっとその論文を見ている。 「大学を入りなおしてたとは気づかんかったわ。山城大学の学生にも売ってたんやな」  麻衣子は何も答えない。 「二か月前、この辺を縄張りにしてる麻薬の密売組織を一斉摘発したわ。でも、みんなただの売人だった。どこからクスリが来てたのかわからなかった。あなたなの。というか、あなたがあの組織を作ったの」  麻衣子は諦めたような口調で話しだす。 「試しに作ってみたんだ。でも、だめだね。儲かるけど、ぼろも出やすいし。頭のいい男は理想に弱いの。簡単だった。あの論文に書いたような事を話したらみんなすぐに話しにのってきた」 「でも、誰もあなたの名前は言わなかった。どうして」 「何回かおいしい思いをしてもらった後に、バックにはやくざよりも怖い連中がいるからって言ったら、すぐに信じてくれた。クスリはやくざが売ってるってみんな先入観があるんじゃないの。私の名前言ったら消すよって言ったらみんな馬鹿みたいに信じてた」 「でも、クスリとかってほんもののやくざの縄張りとかあるんとちゃうん」 「さあ、良く知らないけどあるんじゃない」 「あなたたちはどうやって売ってたの」 「外国ではさ、大麻をどうやって摂取するか知ってる?ケーキやクッキーにしてるの。藤原さんも食べたんだよ」 昨日のケーキを思い出す。麻衣子からの口うつしだけではなかったのだ。 「クスリを大量に日本に持ってくるのはリスクが大きいけど、お菓子にしたらけっこう簡単なんだよ。ちょっとハイになりたいっていうなら、それで十分だし。ま、おばさんを抱こうと思ったら、それじゃあ、しんどいかもね」  藤崎の家で発見したクスリを思い出す。 「本気でクスリやりたいやつは、勝手にやればって感じ。そういうやつらがやくざ関係の人から買うんじゃないの。そんなやつら相手にしなくても、ちょっとでいいからクスリをやってみたいって思う人はたくさんいるでしょ。特に、高校時代は真面目に過ごして、国立大学に入る人とか」 「だから、山城大学の後は、教育大に来たのね」 「白い粉にしたら怖がるけど、お菓子だったら、簡単にのってくるんだよね。でも、左藤先生が私のこと覚えてたのには驚いた。あれでばれるとは思わなかったけど、私もまだまだだよね、びびっちゃった。だから、大学を離れてもらったの」 「大麻なら国によっては100円単位で手に入るわ。それが日本に来れば、グラム何千円で取引される。会社じゃないから、資本もいらない。まさか、大学生がこんなことするなんて誰も思わない。悔しいけどあなたの論文の言う通りにした方がいいのかもしれないわね」  ぼくは麻衣子の前に静かに立った。 「何」 「強がんなや」 「強がってなんか」 「最初はいつや。最初に、クスリを自分で使ったんはいつや」 「高校二年の時」 「誰にもらったん」  麻衣子が黙る。 「麻美さんにもらったんやろ」 「どうし・・・・」  いいかけて麻衣子がやめる。 「やっぱりな。言いたくないけど、店長のせいやろ。自分のその体の傷。最初に見た時は痛々しかったけど、よく思い出してみたら昨日今日でついた傷やなかった」 「じゃあ、お父さんがこの傷を」  片桐が聞いてくる。 「違うと思います。教育大にいたからいろいろ勉強させられました。いろんな家族の事例とか、いろんな子どもの事例とか。子どもが自傷行為をする例として、親からの性的暴行があるって聞いたことがあります。この傷は、たぶんそれです。体を傷つけることで父親が自分に興味を持たなくなるようにするんです」  麻衣子は下を向いたまま、顔を上げようとはしなかった。後ろで手錠をかけられた手で、蒲団を強く握っている。 「最初は、自分で使うだけやったんとちゃうんか。なんで売るようになってん」  麻衣子は何も言わない。 「話して楽になれや。だまってたっていいことないで」 「クスリは万能じゃないよ。テンションが上がる時は上がるけど、下がる時は自分でも信じられないくらいに下がるの。その時に、自分の体を刺した時は救急車で運ばれたの。それから怖くてクスリはやらなかった。そしたら、お母さんがクスリを売り出したの。お金はどんな時もお金だからって」  麻衣子の家族は壊れていたのだ。この家に感じた違和感はそれだった。 「クスリを売り出してからは順調だった。驚くくらいお金が入ってきた。そしたら、お母さんは男に走るようになって。でも、お母さんは悪くないの。全部、私のためにしてくれたから」  麻衣子が深呼吸する。空気を送り込まれる胸がふくらんだりしぼんだりするのがわかる。 「高一の夏ぐらいから、私の部屋にお父さんが来るようになったの。怖かった。お父さん、外ではすごく優しいけど、家の中ではお母さん殴ったり暴れることが多くて。私、何にも出来なかった。お母さんもすぐにわかったみたいだけど、お父さんが怖くて何も出来なくて。だから、私、自分の体に傷をつけ始めたの。そしたら、お父さんも諦めるんじゃないかと思って。血だらけの私の体を見て、お父さん、そのまま部屋から出て行った。うまくいったと思ったんだ、最初は。でも、お父さん、外に女の人作って。借金までするようになった。だから、お母さんが今の雑貨屋で働き出したの。でも、借金は増えてくばかりで。外で女の人に逃げられたら、お父さんはまた私の部屋に来るようになった。もう、毎日のように荒れてたし」  マネージャーに怒られ、よく頭を下げていた店長を思い出す。あのストレスはすべて家族に向けられていたのだ。 「限界だった。私もお母さんも。そんな時に、雑貨屋の店長さんがくれたの。クスリを。生きたまま天国に行けるって。天国ってほどじゃなかったけど、どんな小さな楽しいこともすごく楽しいことに感じられた」  アンナもキムタクも恵も容疑者もみんな麻衣子を見つめていた。麻衣子の次の言葉を待った。 「最初、クスリで儲けた分は借金の返済に充ててたの。お父さんにはずっと黙ってるつもりでいた。でも、借金を返し終えて、お母さんが男遊びをするようになったら、そのことがばれて。お金を寄こすように言ってきた。いくら儲かるっていっても限界があった。大学の学生に組織を組ませたり色々したけど、売り上げは限界まできてた」  麻衣子の膝の上に、涙が落ちる。 「そんな時、入江君に会ったの。元々は、お母さんがホストクラブで見つけたんだけど。美術家の卵って人より、お母さんは入江君に入れ込んでた。家にまで呼ぶようにもなって。最初は大人しかった。でも、色々知っていくうちに、彼は態度を変えていった。まず、お母さんを女として扱う代わりに、私と交際させるようお母さんに迫った」 「お母さんは、了解したの」 「クスリのことをばらすって脅されて、私も断りませんでした。今の教育大学での活動は、ほとんど入江君が仕切ってます」 「いいの。私たちにそんなこと言って」 「言わなかったら、片桐さんが調べるんじゃないですか」 「そうね」 「お父さんを殺そうって言ったのも入江なの」  その言葉の後、麻衣子の部屋の時間が止まった気がした。 「反対しなかったの」  片桐が聞く。ぼくもそれは聞きたかった。でも、聞くのが怖かった。 「お母さんも私も待ってたんだ。どっちかがそのことを切り出すの。でも、私たちには勇気がなかった。それを入江君が言ってくれたの」  これで、わかった。店長とキムタクの共通点。二人とも殺されている。この世への未練と怨念がこの世への干渉を可能にしていたのだ。 「国語科の書庫で入江君が殺したの。後で自殺に見せかけるために首を絞めて。あっけないものだった」  地縛霊は店長だったのだ。だから、常にあそこにいたのだ。もっと早く気がつくべきだった。 「店のお金を盗んだのは、自殺する理由を作るため。盗んだのは、進藤っていうパートの女性。お父さんの浮気相手。お父さんが他の人とも浮気してるから、こらしめたいって言ったらすぐにのってきた。ほら、左藤先生が店の売り上げ盗んだ犯人にされた日にレジしてた人。脅したらすぐに協力してくれた。これで、全部かな。あなたたちが知りたいことは全部言ったと思うけど」 「どうして、素直に話してくれたの」 「もう疲れちゃった。いろんなことに。それに」 「それに?」  麻衣子は片桐からぼくの方に顔を向ける。 「藤原君だから。最初に会った日、藤原君私とやろうとしなかったでしょ。そんな人初めてだったから。昨日、私けっこう本気だったんだよ。途中でお母さん入って来てびっくりしたけど。私が全部、藤原君に話したと思ってたみたい」  アンナの前でその話はやめてほしかった。 「藤原君のほうが嫌だよね、こんな女。だから、実力行使。っていうか、そういう方法しか知らないの。ほんと、気持ち悪い女だよね」  麻衣子の目は、彼女が生きてきたこれまでの時間どんなものを映してきたのだろう。  突然、麻衣子の部屋のドアが開かれ人が入ってくる。その中に入江と麻美がいた。 「そこまでですよ、先輩」  7、8人に囲まれる。何人かの手には銃。エアガンだ。エアガンとわかっていても、銃のフォルムには人を委縮させる力がある。人数が多すぎて片桐もキムタクも手が出せない。 「先輩、一つ言っておきますけどね。麻衣子は俺の女なんですよ」  いきなり入江の右のフックがぼくの左ほほに当たる。 「春政」 アンナの叫びが聞こえる。一発で、口の中が切れる。人に本気で殴られるなんて今まで経験したことはなかった。痛みで左の耳の感覚が鈍る。入江は麻衣子のところへ移動する。後ろ手に手錠がかけられていることに気づく。 「ちょっと、麻衣子に手錠なんかかけて、何してんの、このクソ刑事」  入江の蹴りが、片桐の腹部に入る。片桐がその場にうずくまる。 「お母さん」  恵が片桐に駆け寄る。恵の泣き声が部屋に響いている。やつらは気づいてないけど。 「おい、相手は女やぞ」  パン。入江に近づこうとした時、空気を切り裂く音がして右の太ももに激痛が走る。ジーパンに小さな穴が開き、そこから血が滲んでいる。たぶん、改造してあるのだろう。弾はぼくの太ももを深く傷つけている。立っていられなくなり片膝をつく。アンナの頬にはすでにいくつもの涙の跡があった。こいつらのせいでアンナが泣いてると思うとむかむかしてくる。 「エアガンは人に向けて撃ったらあかんて、説明書に書いてあったやろ」  もう一度、あの音がする。今度は右腕が痛む。右腕を抑えると、皮膚をつきやぶって肉にめり込んだビービー弾が落ちてくる。 「うざ。ほんま、うざ。先輩、ぼくはね、麻衣子と付き合うためにこのおばさんと寝てるんですよ。わかりますか、この努力。それに、僕がいないとこの家は破産してますよ。クスリはうまく売らないと」  入江が麻衣子の隣に座る。麻衣子が上半身だけで逃げようとする。そんな麻衣子を無視して、入江が麻衣子の肩を抱く。 「人間はやっぱり努力が大事やんなぁ、麻衣子。何もしてへんのに、麻衣子の彼氏になれるとかないよなぁ。購買で、この人と付き合うって言われた時、演技やってわかってても傷ついたで。なあ、麻衣子」  入江は麻衣子の体をさらに引き寄せる。 「やめろや」  本当はこんなことを言うのをやめたかった。 「彼氏に肩抱かれて、そんな顔する彼女なんかおらんやろ。勝手なきしょい妄想はやめろや。なんか、お前のオナニー見せられてるみたいで気持ち悪いわ」  あ〜あ、言ってしまった。入江が立ち上がり、右足を上げる。ぼくの顔に乗せたかと思うと、そのまま踏みつける。ぼくは倒れ、後頭部に激しい痛みが走る。同時に、鼻が折れる音がする。両方の鼻の穴から血が出て、一瞬息ができなくなる。口で呼吸するため、口の中の血を吐き出す。思った以上にでかい血の塊が出た。 「もう、あかんて。何も言うたらあかん」  アンナの声がかすれている。幽霊も叫び疲れることがあるのだ。こんな時でも、変なことを考えてしまう。 「さてと。こっちのお兄さんは、ぼくの先輩の藤原先輩。こっちのお姉さまは、警察の方。このまま帰しちゃったらさ。マリファナを合法化して、日本経済を救うっていうぼくらの活動ができなくなるやん。仕方ないよね。麻衣子のお父さんと、あのホームレスと、同じ所に行ってもらおっか。何か意見ある」  誰も何も言わない。麻美は黙ったまま。 「だめ」  震えた声で麻衣子が言う。 「もう、麻衣子は優しいなぁ」  入江が再びベッドに座り、麻衣子を抱きしめる。 「でもな、言ってるやん。彼氏は僕やん。他の人に優しくしたらあかんやん」  麻衣子を抱きしめながら、入江は他のメンバーに命令する。 「今日のは、死体を埋めに行っちゃうから、改造したエアガンの威力試してみようか。はい、先輩もきれいな刑事さんも、あ〜んってして」  ぼくと片桐は入江を見ていた。 「ほら、歯医者さんに虫歯見せるみたいにあ〜んって」  従う以外にできない。 「やめろー!」  キムタクが叫んでいる。ぼくと片桐は、口を開けた。エアガンの銃口が口の中に入ってくる。独特の金属の味がする。 「のどぐらいは貫通できると思うんすよね。すぐに死ねへんかったら、ごめんやで、先輩」  アンナは顔を肩にうずめてぼくを抱きしめていた。最後に、アンナに抱きしめられながら死ねるなら悪くないかもしれない。中途半端な終わりだけど。左藤先生のことを思った。これでは、助けてあげることはできない。心の中で謝る。 「じゃあ、カウントダウンね。5、4、3・・・・」 「はい、終了〜〜〜〜〜〜」  廊下から声がする。 「誰や、見て来い」  2人が廊下に出る。すぐに、うめき声が聞こえる。二人の人間が倒れる音がする。開けっ放しにされたドアから、男が入ってくる。 背の低い坊主の男。あの時のタクシーの運転手。恵の父親。片桐の旦那さん。名前は片桐剛。タクシーの運転手の制服姿だった。名札まである。 「危なかったわ。俺一人やったら、絶対この事態は解決できひんわ」  剛は、片桐を見ていう。 「ごめんな。遅うなって」 「ほんまやで」 「はい。というわけで、今回お越し頂いたのは、わがYKタクシーの訳アリーズのみなさんです。もうね、名前の通り訳ありな方々ですから。というかですね、経済やくざが増えたせいで、武闘派のやくざの方が大幅なリストラを受けまして、タクシーの運転手に流れてきたと。訳アリーズというか、元ヤクザーズでございます。どうぞ」  三人の男が、麻衣子の部屋に入ってくる。いちいち剛が説明する。 「え〜、左の奥から、あだ名はシティーハンターより海坊主。真ん中は、北斗の拳よりラオウ。そして、最後がストリートファイターUより、ザンギエフ。え〜、この辺は世代の壁を感じてください」  もっともなあだ名がついた三人。至極丁寧にお辞儀までしくれる。あっけにとられていると、お辞儀から頭をあげた三人は次の行動に移っていた。 海坊主は、手を広げると回転して一人の男の顔をそのまま壁に叩きつける。ラオウは真正面にいた男に突進する。男は逃げる間もなくラオウに捕まる。ラオウの顔が後ろにそれたかと思うとそのまま男の顔へ頭突きをくらわせる。にぶい音がして、男が崩れ落ちる。ザンギエフは近くにいた男二人をその太い腕で締め上げる。二人の男が落ちるまでに、時間はかからなかった。残りは二人。 「海坊主、飛び蹴りや」  剛の声がする。男二人が海坊主の方を見る。海坊主と二人の男には距離がある。剛がかがみながら男の前に素早く移動する。男が気づいた時には、剛の蹴りが男の股間をとらえていた。男がうずくまる。 「てめ」  もう一人の男が剛に襲いかかろうとする。ぼくは痛む体を起こして、エアガンを撃たれなかった足になるべく体重をかけるようにしながら男の足に飛びつく。男はふいをつかれて床にくずれる。 「おもちゃにばっかり頼ってたらあかんわ」  ラオウが立っていたかと思うと、ラオウの蹴りが男の腹にめりこんでいた。ドシンという音と男のうめき声がして、男は動かなくなる。 「兄ちゃん、やるな」  海坊主に、抱き起こされる。 「なかなか男前の顔やないか」  ザンギエフが褒めてくれるが、うれしくない。もう、顔は血でぐちゃぐちゃだろう。 「所詮、教育大の学生が集まってもこんなもんや。訳アリーズには勝てへんで」  剛がエアガンを拾う。そのまま入江に詰め寄る。訳アリーズ相手では、どの大学の集まりでもほぼ勝てないだろう。入江に近づいていく剛を見ながらそう思う。  入江は仲間が倒れる様を茫然と見ていた。剛が近づくのを見て我に返る。入江は、ナイフを取り出し、麻衣子につきつける。 「近づくな。それ以上近づいたら、この女を刺すぞ」 「刺してみろや、アホ」  躊躇なく剛がエアガンの引き金を引く。その音でさっきの痛みが蘇る。 「約束通り、近づいてはないで」  入江の手からナイフがこぼれている。 「すげえ。片桐さんの旦那さんは、元刑事とかなんですか」 「元専業主夫」 「え」 「エアガンってのは俺らの子どものころ、流行ったおもちゃや。この距離やったらはずさへん」  顔は入江の方を向いたまま、剛が言う。 「もうすぐ、警察が来るわ」  ラオウが携帯を閉じる。ラオウが携帯を閉じるのと同時に、剛がもう一発エアガンを撃つ。弾は入江の右腕の上部にめり込む。 「うわあああああ。痛いよ。助けてください。こんな」  後は何を言っているかわからない。 「100発ぐらいは撃ち込んでやりたいけど、警官の前では自粛しなな」 「そこよりも助けにくるんが遅いほうが問題かな。愛が足りてないんとちゃう」  剛も片桐もこれ以上はお互い近づこうとはしなかった。それでも、恵は泣きながらうれしそうに笑っている。 「結局、役立たずや」  キムタクも泣きながら笑っている。 麻美を探すと、その場にしゃがんでいる。目には何の力も感じられなかった。麻衣子を見ると、俯いたまま警察が来るのを待っている。その横で入江は体をよじりながら泣きじゃくっている。 終わったのだ。 「あの、せっかくなんですが。座っていいですか」  海坊主に声をかける。足の傷に負担がかからないよう丁寧に座らせてくれる。終わったと思うと、足の力が急に抜けてきたのだ。  アンナがぼくの隣に座る。アンナの顔は泣いてて笑ってて、怒っててなおかつ悲しいようなぼくよりぐちゃぐちゃな顔をしていた。 「やっと、終わったな」 「アンナ。それがな、まだ、終わってへん」  もう周りのことは気にしなかった。 「なんで」 「店長のこと最低やと思ったやろ」 「そらな。春政はそう思わへんの」 「お世話になったから。大学生活のほとんど。大学入ってからバイトしたから、働くって何かとか店長に教わった。店長の家でのこととか人として許されへんことがあるのはわかる。現に殺されたわけやし。でも、甘いかもしれへんけど、それだけが、その一面だけが店長やとは思えへんねん。店長にも、チャンスあげたいねん」 「どこまでもあんたはアホやわ」 「やな」  突然アンナの顔が目の前に現れた。そのままアンナの唇がぼくの唇に重なる。唇を離してアンナが言う。 「全部、終わったら春政に話したいことがあるねん。聞いてくれる」  頭がぼーっとしている。重力を利用してぼくはなんとか首を縦にふる。 「今日、調子悪そうやったやろ。それのことやねん。たぶん、こっちで調子悪いってことは向こうが上り調子になってるみたいな」  ぼくは唇に全神経を集中し、さっきのアンナのキスを思い出そうとしていた。 「全然、私の話聞いてないやろ。たった一回キスしただけで、どんだけボーっとしてるんよ」  アンナが怒る。しかし、ぼくは全神経を先ほどのキスのリカバリーにかけていた。  しばらくして、パトカーのサイレンの音がするまで。  片桐に無理を言って、麻衣子を大学の書庫に連れていく許可をもらった。どうしても、今日ではないとだめなのだ。書庫の地縛霊となった父親に会えるのは今しかないのだ。  書庫に着く。アンナと容疑者ウサギ、恵、キムタクがついてくる。やはり、店長はいた。いつものように文庫を読んでいる。 「ここにお父さんがいるの」  麻衣子は信じられないという感じだった。無理もない。  ぼくは紙とえんぴつを床に置いた。 「店長、麻衣子さんに会えるのは、話ができるのはこれが最後かもしれません。時間はそんなにないですから、伝えたいことをこの紙に書いてください。仕事の時の店長と、家族の前での店長とどっちがほんまの店長かわかりませんけど。っていうか、勝手ですけど、ええ店長でいてください」  麻衣子は、じっと紙とえんぴつを見ている。店長は床に正座してじっと紙を凝視している。ぼくが店長だったらなんと書くだろうか。いくら頭の中で考えても何も浮かんでこなかった。  店長はまだ白い紙を見ていた。今更無理なのだろうか。そう思っていると、店長がえんぴつを握った。麻衣子と片桐が驚いた表情を見せる。二人からすればえんぴつが浮いて見えているのだから当然だろう。  店長は、一言だけ書いた。  ごめん。  それ以上書けることも書くこともなかった。麻衣子は唇をかみしめている。泣くまいとしているのだ。けれど、涙は麻衣子の目から落ちていく。 「こんな、こんな子どもみたいな一言で許されるようなことじゃないやん」  麻衣子の声は震えていた。でも、その言葉にはあったかさがあった。店長がしてきたことは、ごめんという一言で許されることではない。むしろ、許されるというレベルを超えていると思う。でも、その一言で麻衣子は救われるのではないだろうか。ぼくはそうであってほしいと思った。 「死んで、この書庫にいるようになって、藤原君が麻衣子の彼氏だったら良かったのにって思うようになったんだ」 「ありがとうございます」 「何」  麻衣子が聞いてくる。ぼくは首をふり、かわりに提案する。 「店長には、聞こえてるから言いたいことがあるんやったら何でも言っとき」  麻衣子は俯くと深く深呼吸した。そして、びっくりするぐらいの大声で店長の悪口を言いまくった。店長は、その場で泣き崩れている。麻衣子も泣いていた。それでも必死で言葉を紡いでいた。店長は何度も何度も麻衣子に謝っていた。  ぼくらはそれを黙って見ていた。  しばらくしてぼくは何かに気づいた。奥の本棚に人の気配がした。確認しようとした時には、腹部に痛みが走る。 「これ以上、店長を苦しめないで」  進藤だった。店長の不倫相手。でも、進藤がどうしてここに。 「どうしたの、藤原」  片桐からは死角になってぼくが刺されているのは見えない。 「あなたは、店長が見えるんですか」 「見えるわ。私には店長が見える。話だってできる。私にだけはあの人が見えるの。あの人は私のために死んでもここに残ってくれたの」  幽霊の店長が見えるということは。そこまで考えて空気を切り裂く音が聞こえた。昔、駄菓子屋に売っていたクラッカーの音を思い出した。 振り向くと、片桐が構えた銃の先から白い煙が一筋出ていた。  女性店員が倒れていく。同時に刺さっていたものが抜ける。折れたブックエンドだった。青いジーンズはほとんど赤く染まっていた。後、どれくらい血が流れればぼくは死ぬのだろうか。痛みはなかったが、刺されたところがとても熱かった。どんどん足から力が抜けていく。立っていられなくなり、ぼく倒れた。頬に床の冷たさを感じた。もう、体が動かせない。目だけでアンナの姿を追った。容疑者ウサギが駆け寄ってくる。背中にのった。  誰かが叫んでる。ぼくの名前を呼んでる。鼓膜が震えているのはわかる。でも、もう届かない。アンナを見たい。ぼくは目だけで必死でアンナを探した。  何かを叫んでるアンナがやってくる。必死で何か叫んでる。もうわからない。目も霞んできた。必死で目を凝らす。一回でいい。ちゃんとアンナの顔を見たかった。 死ななくてすむと思ったのにな。そう思ったら涙が出てきた。一瞬ぼやけた視界が鮮明になり、アンナの顔が見えた気がした。が、目の前はまっくらになった。耳がじんじんする。まだ誰か叫んでいるのだろう。意識が遠くなっていく。踏みとどまろうとしても、無理そうだった。ごめんな、アンナ。体が冷えていく。体の芯が凍ってしまったようだ。ぼくはそのまま意識を失った。  まぶしい。手術室の中は、驚くほど明るかった。手術台にぼくが寝ている。緑の服を着た医師が厳しい口調で指示をしている。その周りを慌ただしく看護婦が動き回っている。これが生死の境というやつだろうか。 「春兄ちゃん」  恵が手術室の入り口に立っている。 「どうした」 「ついて来て」  扉をすり抜けていく。見慣れてはいたが、自分がやるとなるとなかなか決心がつかない。勇気を振り絞り、もちろん目は力いっぱいつむり、扉に突進する。なんの衝撃もなく、ぼくの体は扉の外に出ていた。廊下では、みんなが心配そうな顔で思い思いに手術が終わるのを待っている。みんなの間を恵は進んでいく。振り向いて、早く、という目でぼくを見てくる。ぼくは素直に恵に従う。キムタクがいないことに気づく。アンナと容疑者がいないことにも。  恵が向かう先にいるのだろうか。恵は何も言わずどんどん病院の廊下をすすんでいく。夜の病院の廊下は、幽霊になってもどこか不気味だ。もうすでに自分は幽霊なのだから、さまざまな幽霊に会うのではと、余計な心配をしてしまう。  一つの病室の前で恵が止まる。個室の病室のようだ。誰がいるのだろうか。プレートを見る。  梅崎アンナ  プレートには、アンナとあった。 「はいろ」  恵の言葉に動かされ、ぼくはその部屋に入った。アンナが眠っている。そこに生命があること伝える電子の心臓の音が規則正しく病室に響いている。そこに、キムタクがいた。クリーム色のカーテンがアンナを囲んでいる。容疑者ウサギの姿はなかった。探そうと思って、病室を見回すと一人の男がアンナの看病をしていた。上からでは長い髪が邪魔して顔がわからなかった。  ぼくは移動して、顔が見えるところまでいく。  和樹だった。  どうして、アンナの病室に和樹が。 「これは」  恵に聞いた。恵が口を開いて、説明しようとする。が、恵の言葉が突然聞こえなくなった。壊れたテレビ画像のように、うまく病室の中が見れなくなる。何か強い力に引っ張られるようにぼくはそこから消えた。  とても長い夢を見ていた気がする。でも、うまく思い出せない。目を開けようとすると、声が聞こえる。 「目、開けるで」  うるさい。そら、開けるわ。起きるんやから。起きた途端に驚いた。顔がいっぱいある。こっちを見ている。ぼくは有名人だったっけ。なぜ、ここにいるのだろうか。思い出そうとする。が、うまくできない。記憶の引き出しが異常に長くてなかなか開けきれない。そんな感じだ。一人の女性が抱きついてくる。 「良かった」  その女の人は泣いていた。ぼくが目覚めたことを喜んでくれているのだろう。それは分かった。だけど、誰かわからない。 「誰」  こういう時は素直に聞くのが一番だ。女の人の顔から笑顔が消える。 「お前、わからへんのけ」  男が身を乗り出してくる。見覚えがある。というか、和樹だ。 「和樹」 「おう、俺やん。わかってるやん」 「いつ部屋譲ってくれるねん。待ってるねんで」  そうだ。ぼくは和樹に部屋を譲ってもらう約束をしていた。 「お前、まさか」  和樹の表情が曇る。 「私のことは覚えてないの」  すらりとしたきれいな女性。ぼくは返事に困る。 「ほな、俺も無理やろな」  坊主頭の人が言う。 「記憶喪失ってやつですよね。部分的に」  和樹が、どうします、と他の人たちに言っている。 「まだ幽霊、というか生き霊やったアンナちゃんと出会う前の記憶まではあるみたいですよ。部屋譲ってって言ってますし」 「記憶喪失って何やねん」  みんなの顔が一斉にこっちを向く。 「覚えてるか。俺はあの部屋お前に譲ったんやで」 「うそ。約束はしたけど。まだやろ」  みんなのため息が聞こえる。ぼくは喋るたびにみんなを落胆させてるようだ。 「これをキムタクに書いてもらったら」 「剛、いい考えやん。衝撃的やし、記憶が蘇るかも」  キムタクとはあのキムタクだろうか。紙とペンがある。サインでももらえるのだろうか。ぼくの蒲団の上に、紙とペンが置かれる。すると、ペンがひとりでに浮かび上がり、文字を書き始めた。ぼくは驚いた。 「和樹、これ何のマジックすごいやん」 「マッキー」 「マジックのメーカー聞いたんちゃうわ」  紙が飛んできてぼくの視界を防ぐ。誰も何も触っていない。ずっと目の前に紙があるので、右手で取る。書かれた文字を読む。  ありがとう。春兄ちゃん。恵より。  恵というのは、女の子だろうか。それにしては汚い字で書いてある。でも、何だろう。胸の奥が温かくなる。ぼくはこのメッセージをとても喜んでいるように思える。  不思議なことが起こってるはずなのに、なぜか懐かしい。 「これは、しばらくかかりそうっすね」  和樹の言葉にみんなうなづく。 「ここは、間をとって、また今度っていうことで」 「何の間をとったのよ。でも、それがいいかも仕事もあるし」 「無理しないでくださいね。一番、暇な私が見てますから」  アンナと呼ばれた女の人が言う。とすると、この女性と二人きりになれるのかもしれない。ラッキーだ。 「じゃあ、行くね」  坊主頭の剛と呼ばれた男性とすらりとしたキャリアウーマンという感じの女性が部屋を出る。 「ほな、俺も昼休み終わるし、仕事に戻ろかな」 「あれ、和樹」 「何」 「お前、九州行くとか言ってなかったっけ」 「思いだした」 「なんか、それだけ」 「どうでもいいことを思い出しやがって。ええか、良く聞けよ」  ぼくはうなづく。 「俺はな、ここにいるアンナちゃんに惚れとってん。けど、聞いたらアンナちゃんはお前に惚れてるって言うがな。でも、どうしても、諦められへんかった俺はな、無理言ってアンナちゃんに一回だけデートしてもらえることになってん」  ここまではわかるか、と和樹が言う。ぼくは二回ほど首を大きく縦に振った。 「なんか、その仕草が腹立つわ」 「ええから続けてえや」 「しゃあないな。ええか。ほんで、デート当日や。待ち合わせ場所に来るまでに、アンナちゃんは熱射病で倒れてしまってん。俺はそんなこと全く知らずに、夜になってもそこで待ってた。アンナちゃんが入院したと知って、すぐかけつけたよ。アンナちゃんは意識不明や。体はなんともないのに心は帰ってこうへんのや」 「なんで」 「なんでって、しばくぞ、春政」  なぜ怒られるのだろう。 「アンナちゃんが目覚めてやな。まず、びっくりしはったわ。そら、そうやな。俺がずっと看病してると思わへんもんな。でも、言われたわ。あなたがずっと私を見ていてくれた時、私はずっと春政を見てたって。後で詳しいこと聞いてな。さすがの俺もアンナちゃんのことを諦めたわ」 「なんで」 「なんでって、だから、しばくぞ!春政」  口調は怒ってるけど、和樹は何だかうれしそうだ。それがわかってこっちが恥ずかしなる。悪い気分じゃないけど。 「ほな、俺、行くわ」 「え」 「後は、アンナちゃんに聞き。ほなな」  荷物置き場に置いてあった鞄をとって和樹は病室から出ていく。  アンナという女性と二人きりになる。どうやらぼくは大事なことを忘れているらしい。 「ほんまに、何も覚えてないの」 「ごめん」 「謝らんでええよ。容疑者ウサギのことも覚えてない?」  容疑者ウサギ。かわいいのか、いかついのかわからない存在だと思った。 「春政、お腹に手を当ててみて。包帯巻かれてるやろ」  たしかに左下の腹部に何重も包帯が巻かれている。痛みもある。 「容疑者ウサギが助けてくれてん。あんたが刺された時、容疑者ウサギはあんたの背中に飛び乗った。で、そのまま消えた。その後、春政の手術をした先生がな、不思議なことが起こったって言ってたわ。手術室に運ばれるまで異様なぐらいあんたの体温は下がってたらしい。でも、そのおかげで心臓の活動がにぶくなって出血が抑えられたんやって。手術が始まったら、あんたの体温は戻っていって奇跡みたいなことが起こったって言ってはった」  ぼくが刺された。そんな危ない目に遭うようなことをぼくはしていたのだろうか。むしろ、ぼくにそんなことできたのだろうか。 「ちなみに、私は生き霊としてあんたのそばにおってんで」  ちなみにで続ける割には、ハードな内容だ。生き霊がそばにいて、容疑者ウサギなるものがいて、そして刺される。いったいぼくは何をしていたのだ。 「もう、疲れてるやろうし。これで最後にするから、この話だけは聞いて」  わかった、と返事をする。 「春政、生協の購買で学部のころバイトしてたの覚えてる?」  それははっきりと覚えている。ぼくは強くうなづく。 「私、万引きしようとして、春政に見つかってん。なんていうか、病気やったんやろな。お金はあるのにしてしまう。心の弱さをすぐに病気のせいにしたらあかんけど、嫌なことがあるとすぐに私は万引きしててん」  そう言えば、万引きしようとしていた学生を呼びとめたことがある。 「じゃあ、春政は何て言ったと思う」  ぼくは首をかしげる。 「万引きするスリルが味わいたいならいくらでもさしたるから、後で商品は返してくれって言ってん。なんちゅう、店員やって思った。それから、生協の購買行くんが私の楽しみになってん。だって、そんなこと言う店員が真面目にレジやってるのって笑えるやん」 「何や、それ。でも、それは覚えてるわ」 「ほんま」 「でも、ちゃうねん」 「何が」 「その人のことを考えて万引きを見逃そうとしたとか、そんなんとちゃうねん」 「え」  そうなんや、明らかにアンナの声のトーンが下がる。 「自分のためやってん。その人が、かわいかったから。その人と仲良くなれたらいいなって思ったから。簡単に言うたら下心やな」  アンナが黙る。 「やっぱり、失望した?」 「めっちゃ、失望した。ほんまあり得へん」  突然、アンナの目から光の粒があふれてくる。その光はとてもきれいな光だった。ぼくはこの光を何度も見た気がする。 「泣かんといてや」 「泣いてないわ」 「いやいや、泣いてるやん。なんかな、その泣いてる姿見て、めっちゃ浮かんだ言葉があるわ」 「何」 「ほんまにこれぴったりな言葉やで」 「だから、何よ」 「泣き虫アンナ。アンナっていう名前なんやろ」 「アホ」  アンナの目からさらに涙があふれてくる。ぼくは余計なことを言ったのだろうか。でも、アンナは笑っている。泣いて笑って器用なやつだ。しょうがないから、ぼくはめっちゃ笑うことにした。アンナが泣きやむまで笑い続けることにした。 完