序章 バベルの塔−The_Tower_of_Babel −
そのビルには窓がない。ドアがない。通路がない。
階段もなければ、エレベーターもない。
空気が流れているのでダクトはあるのだろうと思いきや、通気口すら存在しない。
核がぶつかっても問題ない、というその不気味なカタマリは、学園都市のほぼ中央に屹立している。
そのビルは、たった一人の人間のために存在している。
部屋の中央には巨大なビーカー。
直径四メートル、全長十メートルを超す強化ガラスで出来た円筒には、透明度の高い薄い赤色で満たされている。
円筒からは、数万、数十万ものコードやケーブル、チューブの類が這うように拡がっており、さながら血管のようだ。
血管は部屋の四方の壁を覆い尽くすように設置された大小数万にも及ぶ機械類に伸びている。
モニタや電源が漏らす人工的な光は、部屋を満たすほどに淡く包んでおり、部屋からは照明が排除されている。
ビーカーの中には緑色の手術衣を着た一人の人間が、逆さになって浮かんでいる。
銀色の長い髪を揺らめかせる人間は、男にも、女にも。大人にも、子どもにも。聖人にも、囚人にすらも見えた。
銀色の長い髪に、中性的な美しい顔立ち。冒し難い雰囲気に、拘束具のような手術衣。
滲む老獪とともにある子どものような透明度が、見る者の判断を狂わせる。
「……幻想殺しと禁書目録との接触の成功によってプラン四〇二から一四〇八まで大幅に短縮することに成功した……」
人間――学園都市統括理事長アレイスター=クロウリーは、淡く淡く微笑んだ。
彼の前には一人の少年の姿が映されている。
少年が、一人の少女のために命がけで闘う姿。
その過程が克明に映されている。
全て、学園都市に散布された五千万ものシリコン塊、滞空回線から得た情報だ。
七十ナノメートルという電子顕微鏡でしか見ることの出来ないその微細な機械によって、彼は学園都市の全てを動くことなく把握出来る。
「追撃ルートの想定、逃亡ルートの操作を加味しても禁書目録と幻想殺しの遭遇は不確定要素だった。
幻想殺しと禁書目録の遭遇にさえ成功すれば――あれの性格からして禁書目録を見捨てることはあるまい」
画面の中の少年は炎の魔術師、そして聖人とのやり取りを潜り抜けていく。
時に悩み、うろたえ、血を流しながらも。
歩みを、止めない。
「樹形図の設計者の破砕と幻想殺しの記憶喪失はイレギュラーだったが……修正可能な誤差だ」
照準のズレた大魔術が、衛星を撃ち抜く。
禁書目録、と呼ばれた修道女の首輪を打ち砕いた少年は、頭上を舞う魔術の残滓によって脳を損傷した。
「……残骸で中枢に達しえる部位は学園都市近郊に落下済みか。緊急手段に問題はない」
病院で眠る少年の姿に替わって、樹形図の設計者の残骸が映し出される。
各国は学園都市至高のコンピュータの残骸にありつこうと、ロケットの建設を急いでいる。
しかし、この近郊に落ちた残骸を除いては、学園都市の機密には近づけ得ない。
万が一衛星が堕ちた場合も、対策済みだということだ。
「残骸に達しえる組織は六。総関係者は七百二十九……ふむ」
写真と組織図がリスト化されて表示される。
その中でアレイスターは一人の少女に目をつけた。
学園都市内の学校、霧ヶ丘女学院の制服を着た少女だ。
「座標移動……彼女が関わっているとは僥倖だな。残骸への到達は彼女に任せよう」
画面が切り替わり、再び少年の姿が映し出される。
少年は、修道服を着た少女に新たに巫女服の少女を加え、ハンバーガーチェーン店で寛いでいた。
その場面は関係ないとばかりに映像が早回しされる。
「吸血殺しとの遭遇……それは大した重要度にはない。
アウレオルス=イザード……"鈴"に惹かれた好例か」
映像では、緑髪の男と少年が死闘を演じていた。
右腕を失った少年が、男に向かって吼えている。
「幻想殺しの第一段階を終了したおかげでプラン一六一九まで短縮することに成功した。
今後も"鈴"を使ってプランを大幅に短縮することが可能となるだろう……しかし」
アレイスターは淡い淡い笑みを浮かべている。
モニターは揺らめくようにまた画像を変化させる。
「"プロジェクト"の進捗は五十%……現状より誤差二%以内に一方通行と幻想殺しが遭遇戦を行うだろう。
想定よりも進行が急だな。禁書目録との接触成功によるプランの短縮は僥倖だったが……
このペースではヒューズ・カザキリの係数が理論値に達し得ない……」
映像の中、白髪の少年とやけに表情の薄い少女が追いかけっこをしていた。
追いかけっこは追いかけっこでも、言葉のように生易しいものではない。
一方的なデスゲームだ。
少年は既定通りに少女を抹殺し、歪んだ笑いを響かせている。
「"鈴"の音色を想定に入れると二週間前後には理論値を一定数以上に引き上げる必要がある。
第一候補の進行だけではやや不足する。
やはり第二候補との同時進行は必須となるな」
アレイスターは微笑んだ。淡く、淡く。
それはアルカイックスマイルともいえる微笑。
そこには、何の意味もない。何の意義もない。
スクリーンには二人の少年の姿。各々が日常を漫然と過ごしている。
アレイスターはただそれを眺めている。
ただ、それを眺めている。
第一章 とても長い長い序章−Tedious_daily_life−
橋場透は普通である。
黒髪黒目、ちょっと童顔で背が低めなところがコンプレックス。
奇抜な髪型や服装なんてものはない。どこにでもいる少年だ。
口調だって普通だ。たぶん。
勿論、一介の学生であり、まだまだ未来ある若者である自分を普通である、と認識するには不満があった。
しかしこの学園都市において、自分は特出した人間ではなく、また蔑まれるほどでもなく。
そんな位置に立っていることを、彼は深く理解していた。
学園都市――東京都西部を切り開き、学校を集めた学生の街である。
この街は、"超能力開発"が学校のカリキュラムに取り入れられた実験都市なのだ。
世間一般で言うなれば、学園都市という特殊な都市の学校に通っている上能力者、だなんて普通とはまったく隔絶した位置にいることは言うまでもない。
が、学園都市から出た記憶のない――少なくとも物心ついてからはそうだ――彼にとっては、世間一般の事実なんて箸にも棒にも引っ掛からないことであるし、また、学園都市のほかの人間にとってもそうだろう。
"普通"は環境に影響されるものである。
閑話休題。
時節は八月、夏の終わりであるが、まだまだ暑いし、日差しも強い。長期休暇も終盤である。
宿題も適当に片付けた透は、第七学区までやってきていた。
世間より三十年は技術が進んでいるという学園都市でも、セミの鳴き声が絶滅することはないらしい。
電柱代わりに立っているプロペラに、セミがへばりついている。
風力発電のプロペラの虫詰まり防止技術も三十年進んでいるのかと思うと、妙に笑える話である。
第七学区は学園都市でほぼ中心に位置している学区だ。
役割ごとに区分けされている学園都市の中でもこの学区は雑多で、多種多様な施設が混在している。
暇を潰すにはもってこいだった。
繁華街のある第一五学区や、地下街のある第二二学区へのアクセスがいいのもポイントである。
第七や第一五学区の商店を適当に冷やかして、ぐるりと回ってくるのが今日のプランだった。
プラン、といっても大雑把なもので、帰りに夕飯の材料を買って〆ることが必須条件であるくらいなものだが。
彼の愛しき同居人は、家事の類を全くしない。
そうなると必然的に、面倒な役割は彼が担うこととなる。
ポータブルプレイヤーを操作して曲を変える。面倒ごとは帰りに思い出せばいい。
「ヒッカルぅーーー!」
「おわ!?」
音がするほどに勢いよく背中を叩かれ、透はつんのめった。
衝撃でイヤホンが弾かれる。
「ってーなぁ、」
「こーんなとこで会うなんて奇遇じゃない? 結局、私たちって縁があるとか?」
振り向き様の文句を遮られる。
目の前にいるのは二人の少女だった。
戸惑うこちらに構わずペラペラ喋る金髪蒼眼の小柄な少女と、ふわふわしたワンピースを着た更に小柄な少女だった。
美を付けてもいい。やかましい口さえ閉じてくれれば。
顔を引き攣らせながら視線を彷徨わせる透は、少女の片方に見覚えがあることに気がついた。
「あ、えーと。絹旗?」
「……もしかして透のほうですか」
ぎこちなく頷く透に、外人少女は漸く口を止めた。
透と絹旗の顔を交互に見やる。
癖のある長い髪が、ぱらぱらと舞う。
姿勢を変えても、ベレー帽はあまりズレたりしないようだ。
「結局あんたヒカルじゃないわけ? 紛らわしいんだけど」
「いや、紛らわしいとか言われても。よく間違われるけどさ」
「何? 兄弟? 双子?」
「ふ、双子……」
ふーん、などと言いながらぺたぺたと顔を触る少女に、透は硬直するしかない。
助けを求めるように絹旗にアイサインを送るが、絹旗は興味ありませんとばかりに見向きもしない。
薄情な少女である。
その内、外人少女のほうがサインに気付いてしまった。
「絹旗、結局こいつと知り合いなんでしょ? 紹介してよ」
請われ、ようやく動き出す絹旗。それでもさも億劫だといわんばかりの態度だ。
どうも面倒臭がりらしい。
「橋場透、クラスメイトです。橋場光の双子の兄弟です。兄か弟かは忘れました。超興味ありませんから」
「……厳しいな、おい。兄だよ。一応な」
「へー、ホントそっくりだわ。結局、どこが違うの?」
絹旗の平坦な言葉に、透は苦笑するしかない。
興味がないというのは本当のことなのだろう。態度で察せられる。
まぁ、自分の評価なんて概ねこんなものだ。
優秀な弟と普通な兄の間にはどうしようもない格差が存在する。
「んー、これでも髪型とか服装とかちょっとしたところに気を使ってるつもりなんだけど。そうだな、これとかな」
メビウスの輪が重なったような、そんな腕輪を指差す。
何で出来ているのか、輝くわけでもなく、光沢がないわけでもなく、金属質な鈍い輝きを放っている。
双子の弟に間違われることに、透は慣れていた。
それくらいに二人はよく似ている。
だが、性格や、ちょっとした好みは結構違いがあった。
光は、あまりファッションの類に気を使わない。
それどころか、よく服をダメにする。
「結局、紛らわしいんじゃん。もっとすっぱり変えたらいいのに。カラーとかさぁ」
「あいつが嫌がるんだよ。あまり大きく変えると似せようとするし」
「へぇ、意外」
「超意外ですね」
「だろー。似合わないよな」
ここにはいない光をダシに笑いあう。
他愛ない笑い話。
空気が緩んだところで、外人少女――フレンダというらしい。
彼女が切り出した。
「結局、これからブラつくんだけどさ。トオルも来ない? ヒカルの代役で」
「代役かよ……。絹旗はいいのか?」
「まぁ……構いませんけど」
やや複雑そうな絹旗が気になったものの、透は流すことにした。
美少女のお供が出来る機会を逃す理由もない。
今日の自分はツいてる。……弟のおこぼれであることも否定できないが。
「じゃ、どこ行こうか。ダイナナは色々ありすぎて逆に迷うよな」
「あ、それがねー、キャッチャーでゲコ太の新しいのが出ててさ」
「いいねーいいねー、それじゃあまずそれから攻略していこっか?」
「いや、お前キャッチャーみたいな細かいの大の不得意だろ」
「したらお前が取ってやればいいじゃん。そして好感度アップ!」
「俺もそんな得意じゃねえよ。あんまやらねーし」
「えー、甲斐性ねーなートオルちゃんはよ」
「結局、甲斐性ないオトコってモテないよね」
「うっせーよお前らって誰かツッコめよ!」
背中に圧し掛かった男を暑いとばかりに振り払う。
少年はおどけた様子で振り回される腕をあっさりと避けた。
半眼で睨んだところでまったく応えることはないようだ。
「甲斐性は少し違う気がしますね。超役立たずには違いありませんけど」
「……いや、ツッコむところそこじゃないだろ……」
「何か?」
ズレた指摘に思わず沈黙してしまう。
第一、UFOキャッチャーの才能があったとしてもあまり嬉しくない。
そんな様子をにやにやと眺める少年は、透と瓜二つだった。
ラフなパンツに幾らかのアクセ。人をからかうような小生意気な表情を浮かべている。
知らなければ……いや、知っている人物でも遠目からでは分からないだろう。
「遊びいくんだろ? 俺も混ぜろよ」
少年――橋場光は、そう言って笑った。
*
橋場透、橋場光の兄弟は、今年長点上機学園に入学した。
長点上機学園は第一八学区にある能力者開発のエリート校だ。
常盤台、霧ヶ丘などとともに学園都市の五本指に数えられる超名門校……
というか、能力開発の分野においてはナンバーワンを歌い文句にしている。
自分がこの学校に入学出来たのは光のおかげである、透はそのように認識していた。
事実、透の能力はレベル2。五段階中の二だ。
低いと言うなかれ。これでも学園都市全体の学生にとっては平均的か、平均より少し上の位置である。
しかし、書類上彼の能力はレベル3、強能力と言う事になっている。
何故なら、長点上機学園の入学審査基準はレベル3が足切りだから。
つまり、本来透は長点上機学園になど入学出来ないはずなのだ。
「にしても私服かわいいなー最愛ちゃん。そんなの着てたらますますちっこく見えるぜ」
「超馴れ馴れしい上に超失礼ですね。気軽に下の名前で呼ばないでください」
「うっわ。結局ヒカルってロリコン?」
「ロリじゃねえよ! 俺はミクロ専だっての!」
「何ですかそれ。超キモいんですけど」
「あ、ひどくね? そんな拒否らなくても」
「結局ミクロ専ってなんなの? 最愛のほうが魅力的ってこと?」
「いやいやフレンダもかわいーよー、ちっさいし」
「超節操ないです。最悪です」
ぽんぽんと行われるやり取りに透は苦笑する。
光がいると大体彼が中心になる。
彼には人を引き付けるような魅力があるのだ。
「透、透」
途切れた会話にあわせ、光が耳打ちする。
女性陣も何やら内緒話をしているようだ。
「俺ちょっと抜けるからさ、フレンダと」
「はぁ!? ち、ちょっと待てよ」
「折角男女二人ずつなんだからさ、分けたほうがやりやすいだろ? 色々とさ」
「い、色々って……」
「うまくやれよ」
困惑する透をよそに、光は乱暴に透の背中を叩いた。
バランスを崩した身体が、絹旗の前に押し出される。
「んじゃ、私らはこれで。またねー」
呆然とする透と呆れた様子の絹旗を残し、二人は行ってしまった。
腕を組んで随分と仲が良さそうに。
まったく結構なことである。
「行ってしまいましたね」
「ああ……」
「それじゃあ私はこれで」
「ああ……ってち、ちょっと待て!」
踵を返す絹旗の手を取り、慌てて引き止める。
特に表情もなく振り向いた絹旗は、なんですか、と眼で語っていた。
「いや、そんなあっさり置いてくなよ……。き、絹旗はこれからどうするんだ?」
「適当に暇を潰して映画でも観ようかと。"シベリアンハスキー超リニア"辺り今やってたはずですから」
「"シベリアンハスキー超リニア"ってあのB級シリーズの?」
「知ってるんですか? 超マイナーだと思ってましたが」
「ああ、情報誌くらいなら見るし」
超意外です、みたいな顔をする絹旗。
"シベリアンハスキー超リニア"は、C……いや、その知名度からB級と評される映画だ。
何作か過去作があるはずである。
自分は一体なんだと思われているんだ、そう思わないでもない透である。
それでもめげず、透は畳み掛けるように続ける。
「あ、あー……じゃあ、一緒にいっていいか? ほら、暇潰しくらいにはなるし」
「……」
不器用にどもりながら言葉を発する透に、絹旗は沈黙を返す。
真っ直ぐ向けられた視線に、透は居心地悪そうに笑顔を強張らせた。
(やっぱダメか、ダメだろうなー)
内心そう思う透に対し、絹旗はこの日初めて微笑んだ。
思いがけないその表情に、透は思わず固まってしまう。
「……女性への誘い文句としては超失格ですけど、及第点にしといてあげます。橋場透的には精一杯なんでしょうし。行きましょう」
「お、おう!」
硬直した透に気付いているのかいないのか。
さくさくとひとりで歩を進める絹旗に、透は慌てて追いすがった。
今日は、いつもと違った一日になりそうだった。
「橋場透。橋場光とフレンダは超親しいんですか?」
「いや、知らない。たまーにあいつどこで知り合ったんだ、っていうようなオンナ連れてるんだよな」
「……そうですか」
「……んなことよりフルネームはやめろよ。居心地ワルいし」
「あなたの居心地なんて超知ったことではありませんけど。短いほうが楽なのは確かですね」
「はいはいはい。みんな下で呼んでるんだからそれでいいだろ?」
*
繁華街を二人の少年少女が歩いていく。
腕を組んで歩く二人は、表面上恋人同士にしか見えないだろう。
童顔な少年と金髪の美少女は、可愛らしい組み合わせでもあった。
まぁ、人口の大半が学生で構成されている学園都市においては、若年のカップルもそう珍しくもないのだが。
「……で。そっちは何だって?」
「つか、結局最近缶ヅメにハマってるのよ。あれってキてるわよね発想が」
「おい。そりゃもういいって」
「特に魚介が最高。生臭いとか、それがいいのよ」
「おいって」
強引に話を打ち切る光に、フレンダはつまらなそうに唇を尖らせた。
「結局、焦りすぎじゃない? 早い男は嫌われるよ」
「うるせーよ」
付き合いきれないとばかりに振りほどかれた腕に、フレンダは再びしがみついた。
光も振りほどかない。
「"アイテム"でもそんなに情報は変わらないね。ウワサは確かみたいだけど」
「……続けろ」
光は不機嫌そうに眉根を寄せた。フレンダは特にそれを気にしない。
表面上はじゃれあっているようにしか見えないだろう。
通りの人間がカップルの表情の変化まで気にしているとも思えないが。
「結局、二十一日の"実験"中に何かあったみたい。中止になってたし」
「場所は?」
「第一七学区の操車場ってことになってたけど。あ、封鎖はもう解かれてる」
舌打ちする。封鎖が解かれているということはもうそこには何もない、と言われているに等しい。
学園都市の情報操作はかなりの技術を誇る。
まして、情報収集系の能力、技術を持たない光には何の痕跡も見つけることが出来ないだろう。
「で? どこのどいつだ。一方通行にケンカ売った挙句に勝っちまったとかいうバカは」
「知らない」
白い眼を向けるが、フレンダが嘘をついている様子はない。
少なくとも光には、それを見分けることが出来なかった。
それでは文句のつけようもない。
「それがね、結局サッパリなのよ。その点だけはなーんにも見つからないの」
「……アレイスターか」
「多分ね。結局、マズいと思った上がウワサを操作したんだと思う」
アレイスター・クロウリー。学園都市統括理事会の理事長。
広大な学園都市の全てを理解し、掌で転がしている。
流された噂にも、何がしかの意味が込められているのだろう。
一方通行が敗北したという噂にも。
本当に消す気があるのなら事実そのものを有耶無耶にしてしまえばいい。
「なんかね、"プロジェクト"も凍結されたんだって」
「……マジで?」
「マジ、マジ。プランナーは上を下への大騒ぎよ。そりゃそうよね」
通常、学園都市の重要な実験、活動の殆どは樹形図の設計者にて計算された後に決定が下される。
樹形図の設計者は衛星上に打ち上げられたスーパーコンピュータで、その優れた演算能力は天気予報を"予言"までしてしまう。
実験や活動の結果も限りなく正確に未来予測してしまうため、通常、これを通した決定は覆されない。
つまり、通常でない事態が起こったということだ。
一方通行は敗北した。それも通常でない方法で。
それとも。"プロジェクト"を凍結するために一方通行を敗北させた?
……それならそもそも"プロジェクト"なんて通らないような気もする。
樹形図の設計者は、そうそう無駄には使われない。
答えが出ない。
難しい顔をする光に、フレンダは律儀に続きを待った。
「じゃあ同じレベル5がやった、とかじゃないんだな?」
「多分ね。少なくとも沈利じゃないけど」
「アイツじゃムリだろ」
「誰だってムリでしょ。結局、一方通行が弱くなったわけじゃないみたいだし。噂に踊らされたバカが返り討ちにあってる」
既に浮き足立った馬鹿が何人か、一方通行を襲撃しているようだ。
それはともかく。光は思う。
もしも一方通行が本当に敗れたとするなら。
真っ向からブチ破った。そういうことだろうか。
怖気とともに武者震いが奔る。まさか。
一方通行を破るなんて尋常な化け物ではない。
何かしらの能力を巧く使って破ったのだろう。……だが、どうやって?
全てを反射するような化け物を相手に?
「……ハハッ」
知らず笑みがこぼれる光を、フレンダは白い眼で見上げる。
理解できない、そんな表情だ。
「私ならお近づきになんかなりたくないけど。あれ以上の化け物とか冗談じゃないし」
「うるせー、俺の勝手だ。……カミジョートーマについては?」
初期の噂に出没した名前。
光は小耳に挟んだその名前についても調査を頼んでいた。
「上条当麻、ね。学園都市に1人しかいないから特定はラクだったけど。これ結局、勘違いなんじゃない?」
「なんで」
「無能力者。第七学区の高校生。普通の高校生ね」
「……はぁ?」
唖然とした表情で少女を見下ろす。
けれど、フレンダは歌うように言葉を続ける。
光と同い年、だそうだ。
「本当よ? 書庫に載ってるのはそれくらい。今外出申請出してるみたい」
「……この時期に?」
上条当麻が外出申請を提出したのは、八月二十一日。つまり、問題の当日だ。
盆休みよりも後、という不自然も併せて、条件的には合致している。
学園都市側が意図的に上条当麻を追い出したのではないか、ということだ。
「確かに怪しいけど。結局、夏休みだし」
まったく真剣味を帯びない声。
彼女はその"上条当麻"が一方通行を破ったとは考えていないということだろう。
確かに、レベル0とレベル5ではお話にもならない。
それこそ月とすっぽん。単純に戦力比で計算しても、アリと恐竜くらいの差があるだろう。
レベル5は、文字通り一軍に匹敵する戦力なのだ。
それも"最低でも"という枕詞がつく。
「じゃあ"アイテム"から見ても?」
「何も」
「どっから出てきたんだよその名前」
「誰かに恨みでもかったんじゃない? 結局、路地裏の不良としょっちゅういざこざ起こしてるみたいだし」
口ごもる光。
程度の悪い嫌がらせ。夏休み。
特段否定できる要素があるわけでもない。
「これ以上調べるなら結局、上条当麻が学園都市に戻ってからじゃないと、無理」
いらないと思うけどね。言外にそう言っていた。
フレンダを責めることは出来ない。
何せ光も、自分がレベル0に負けるところが想像できなかった。
一方通行なら尚更である。
一方通行は、例え核ミサイルを撃たれても生き残るといわれているのだ。
それくらいの化け物だった。一方通行は。
「この件で"アイテム"は?」
「結局、必要なら"電話"がかかってくると思うけど? 管轄違うし」
どうでもよさげに呟かれる言葉。無味乾燥な色をしていた。
"電話"があれば動くし、なければ動かない。
簡潔な話だった。
ガラス球のようにきれいな蒼色は、きらきらと輝いている。
「さ、私らも遊ぼうよ」
*
「ただいまーっと……」
部屋の扉を開き、靴を片方脱いだところでどっと疲れが押し寄せてきた。
意図せずふらついた透は、壁にひじをついてもう片方の靴を落とした。
オンナノコとのデート紛いは初めての経験だった。やはり緊張していたのだろうか。
今日はもう面倒臭いし残り物と炒め物で済ませよう……と考えたところで、夕食の買い物を忘れたことに気付く。
どうやら緊張の上にのぼせていたらしい。
照れ臭さだとか、情けなさだとか。
色々と複雑な感情に支配されて、着の身着のままでベッドに倒れ込む。
もう一度外に出る気力なんてない。
どうやら光はまだ帰っていないらしい。
人生初めてのデートは概ね上手くいったといえる。
ゲーセンで適当に暇を潰し、
(体感格ゲーでフルボッコにされた。絹旗は猛者だった)
映画を楽しみ、
(シベリアンハスキー超リニアはタイトルからしてツッコミどころ満載で、何度もハラハラさせられた)
喫茶店で映画を批評しあい、
(というか、あれはない、とかB級としてもまだまだ、だとか)
ウィンドウショッピングを楽しんだ。
(絹旗はアクセや小物より服を見るようだ。ピンクハウス系とか、らしい、と言ったら超余計なお世話です、とか言われた)
最後にTEL番とメアドをゲットすることが出来たのは自分としてはかなり頑張ったほうだと思う。
(超挙動不審です。超キモいです。と言われてくじけそうになったが)
……。
人生初めてのデート? は概ね? 上手くいったといえる……かも。
なんだか思い返すたびに情けなくなって、透は少しげんなりした。
(でも……)
先ほどまで会っていた少女のことを思い出す。
(絹旗、可愛かったな……)
結局、絹旗最愛が笑ってくれたのはあの一度だけだった。
皮肉げな、とかなんとなく頬を緩めてくれたり、とか、若干の表情の変化はあった。
けれど、笑ってくれたのはあの一度だけ。
それなりに楽しんでくれた、とは思うのだが……
(いやいやいやいやいや)
何やら桃色っぽいものに頭の中が支配されているような気がして、透は首を振る。
気恥ずかしくてたまらない。
そうしたタイミングで鳴るメール受信の音に、透は思わず飛び起きた。
もしや絹旗、などと考えてしまうのは思春期の学生の1人として許してあげて欲しい。
微かな緊張と期待とともに開いたところに目に入ったのは、弟からの素っ気ない一言。
「『今日帰らない』ってちくしょおおおおおおおおおお!!」
男として格の差を見せ付けられた気がした。
*
「と」
ころころと自由落下する卵が空中でぴたり、と静止する。
卵はそのまま何もないのに空中を動き、透の掌へ移動した。
夕食の準備は透の仕事だった。
というか、家事はほとんどが透の仕事である。
透自身も非常にずぼら、というか面倒臭がりな性格だが、光はそれに輪をかけてひどい。
というよりも、興味を持ったこと以外にはあまり関心を示さない。
挙句、ものすごい不器用なのだ。細かいことを気にしないせいか、作る飯はまずいし掃除はヘタだ。
そのくせ文句ばかりはいっちょ前なのだからたまらない。
昼間の突発イベントのせいで夕食の買い物を忘れてしまったが、光は今日戻らない、とのことなので結果オーライといえた。
手抜き三昧だ。
光が家に戻らないことはそれなりに多い。
どこでナニをしていることやら……いつもはあまり気にしないことを考える。
金髪美少女――フレンダといったか。
蒼穹のような蒼い瞳。長くスパイラルを掛けたような金色の髪、人形のような顔立ちに、まだまだ発育不備な……
昼間に会ったばかりの彼女の姿が妙に具体的に思い浮かび、透は気まずい思いを押し込めた。
軽く作った夕食をよそい、ダイニングに向かう透に続くように箸が浮く。
ちゃぶ台――円形テーブルの前にどかっと座る透の手の元に、箸はぽとりと力を失ったが如く重力に従った。
掌中の箸を見つめる透はどこか面白くなさそうで。
無言で黙々と食事を始めた。
止める。浮かす。動かす。
それが透の能力だ。
一般にそれは、念動力と呼ばれる。
超能力、といわれて誰もが最初に思い浮かべる能力だろう。
スプーンを曲げることも、これにあたる。
誰もが思い浮かべる能力――それはひどくありきたりな能力だった。
普通、普通。
学園都市でも念動力保持者は腐るほどいる。
念動力ただそれのみ、という能力者は少ないが、広義念動力保持者はそれこそ星の数。
別にそれがどうだという訳ではない。
念動力、大いに結構。
物を操作する能力、そういってしまえば簡単だが、その応用性は高い。
日常のちょっとした役に立つのはこういった能力だし、高位能力者にもなれば、分子レベルで物を操作することが可能だ。
(モノをガチガチに固定することも可能らしい。殆どの干渉を弾いてしまうとか)
ただ問題は――透の能力は大したことがない、という一点だ。
分子レベル? それって何? おいしいの?
世の中にはレベル0と呼ばれる無能力者がいる。
その名の通りカリキュラムを受けても一切能力の開花しなかった落ちこぼれ。
それに比べるなら透の能力は高い。高い、が。
「レベル0と比べても、ねぇ」
空になった皿を浮かし、流しに移動させる。
こういうときに念動力は便利といえば便利だ。大したものでもないのだが。
一般的に学園都市でレベル0に向けられる視線は冷ややかだ。
寝っ転がってエスペリンと呼ばれる薬品を静脈に注射し、首に電極をつけてイヤホンでリズムを刻む……それだけの行為。
能力開花カリキュラムを受けさえすれば、誰にでも能力は開花する、という通説が流れている為だ。
つまり、レベル0はその"誰"にすら当てはまらない――そういう認識が、学園都市には確かに存在する。
高位能力者になればなるほど、その認識は深くなる。
最も――透としては、レベル0の実数を見る限り、その考えは当てはまらない、と思ってはいるが。
誰にでも開花する。
その認識が正しいなら、学生の六割もの大人数がレベル0であるはずがないのだ。
明らかな矛盾である。
だが――透は長点上機学園に通っている。
能力開発最高峰と呼ばれる長点上機学園にである。
レベル0と己を比べて満足に浸っているわけには、いかないのだ。
「さて」
気合一つ、ベッドの下から缶ケースを取り出す。
煎餅が入ってそうな直方体タイプだ。
乾いた音とともに開かれたそれには、山のようにビーズが入っている。
別にビーズアクセサリの趣味があるわけではない。
訓練の一貫なのだ。
"花かんむり"
学生の間ではそう呼ばれている。
極小のビーズを糸に通し、輪を作る。それだけの話。
問題はそれを、念動力で行うということだ。
やり方は問わない。
ビーズを動かそうが、糸を動かそうが、手を使おうが。
但し、ビーズの口径は非常に小さい。直径は0.1mm。
課題用のビーズがわざわざ購買においてあったりする。
一般に置いてあるビーズの最小径が1mmないしは0.5mmであることを考えると、小ささがわかるだろう。
勿論糸も特注品である。
透の動きは、既に習慣になっているかのように滑らかだ。
実際に、習慣になっている。
光がいないときに必ずやっているのだ。
同封してある糸を取り出すと、透は糸きり台に固定する。
からころ、と糸きり台が鳴る音とともに糸がうねる。
透は糸を動かす方を選択するようだ。
透の念に合わせ、糸が缶ケースに潜り込む。
そして、ビーズの穴を察し、穴を通す。その繰り返しだ。
精密性と集中力の訓練だった。
高位の念動力者は分子レベルまで物質を認識できる。
ビーズの穴程度では分子レベルまで程遠いが、徐々に認識できる幅を広げていくこともこの訓練の目的――であるらしい。
簡単に見えるが、実はかなり奥深い。
ただ糸を動かすだけでは糸が解れるため糸の先端を先鋭化して固定しなければならないし、ビーズの穴の場所を感じるには、結構な集中力がいる。
目で穴の位置を確認する訳ではなく、固定化した糸の先から感じるのだ。
精密性には自信のある透は、この訓練は得意な方だった。
最も、高位能力者ならばこの訓練、糸を固定化し、ビーズの方向を固定化し、袋に入れたビーズをぽとぽと落とすだけでクリアしていったりするのだが。
透の能力に決定的に足りないのは、パワーだ。
一度に大量のものを動かすことが出来ないし、重い物を動かすことが出来ない。
レベル2――透が与えられている評価。
弟とは比べ物にならないほどに弱い、能力。
「――は」
程なく――数mほど行ったところで、集中が途切れた。
手の平で顔を抑え、宙を仰ぐ。
息が整うまで、暫く時間が掛かる。
――去年の夏。今年と同じくらいには暑い夏。
光は分厚い書類を手に透の前にやってきた。
光と書類、死ぬほど似合わない組み合わせだ。
さらに言うなら、真剣な顔すらも光には死ぬほど似合わない。
けれど、光は似合わない顔を貼り付け、似合わないものを持って透の前に現れた。
『長点上機学園 入学要綱』
何度見ても書類にはそう書いてあった。
長点上機学園――学園都市における能力開発トップ校。
この学校に通うような存在はいわゆるそう、エリート、だ。
自分の弟の能力がとても素晴らしく、とても強力であることは知っていた。
けれど改めて自覚し――いや、させられた。
自分の弟はすごい存在だ。
自分の遥か高みにいる存在なのだと。
光は言った。
「一緒に長点上機学園に行こう」
はぁ? という声が出た。
光が似合わない顔をして、似合わない口調で、似合わないものを持ってとんでもないことを言うものだから、思わずそんな声が出てしまったのだ。
想像の埒外だった。
透には、光がこれまで自身の強力な力に何の興味も持っていないように見えていた。
事実、これまでの光の行動からエリート意識や能力開発に対する頓着など皆無に見えていたし、持てる者の余裕か、などとも思っていたものである。
閑話休題。
それに、光だけならまだ分かる。光は強力な能力者だ。
長点上機に入っても不思議ではないほど強力な能力者。
けれど、兄である自分、透は違う。
透はレベル2。どこにでもいる普通の能力者だ。
長点上機のボーダーはレベル3。強能力者や大能力者がうじゃうじゃいる。雲の上の領域だ。
これからレベル3まで上げろとでも言うのだろうか。半年で。
可能性はなくもないのかもしれない。能力も努力次第で成長する、と言われている。
それでも半年はかなり厳しいスケジュールだといえる。有り得ないほどには。
半年の猛勉強でレベルが1つ上がるなら今ごろレベル5が繁殖している。
レベル0が社会問題になったりなんてしない。
能力開発には、才能が、そして運とが大きく関連しているのだ。
ねーよ、というか無理。常識的に考えて。
自分と光を同じ尺度で捉えられても困る。
そう説明しようとしたとき、光はさらに驚くべきことを言い放った。
つまり――光は透が思う以上にとんでもない能力者だったのである。
学園都市一の学校に条件が付けれる程度には。
透は作ったビーズのラインを取り上げた。
この練習を始めた初期のものと比べてみると、いくらか成長の後が見える。
そこそこには伸びている、そういうことだ。
精密性なら恐らく、レベル3に届く。精密性だけなら。
昨日のものと比べてみる。
透はラインに糸溜りを作り、乱暴に投げ出した。
ケースの中でかしゃん、とビーズが音を立てる。
――透は悩んだ。
目の前の書類に記入さえすれば、長点上機学園に入学することが出来る。
能力開発でナンバーワンの長点上機学園に。
学園都市に在住する学生にとって、ステータスともいえる長点上機学園に。
光はさらに言った。
もし透が違う選択をしても、自分は長点上機に入学する、と。
それは驚くべきことだった。
自分と光は、いつだって一緒にいると思っていた。離れることなんて、考えたこともなかった。
少なくとも自分はそうだったし、光もそうだと思っていた。
『俺たちはずっと一緒だよな』
記憶の彼方に残る言葉。その言葉に偽りはない、そう思っていた。
けれど、光はいま、自分の道を選ぼうとしている。
透は光の目を見た。
光はまっすぐ透を見つめている。まっすぐ透を見つめている。
透は、書類に視線を落とした。
長点上機学園。長点上機へ行く。夢想だにしなかった事態。
能力で苦労したことはなかった。
可もなく、不可もなく。それが自分の器なのだ。そう納得していた。
そう納得させていた。
長点上機学園に入学する。身分を偽って、長点上機へ行く。
恐らく、自分は落ち毀れる。レベル3がボーダーラインである学校にレベル2が混じるのだ。
当然の結果。
いくら書類を誤魔化せても、力の大きさは変わらない。
学園都市における能力はひとつの尺度。ひとつの価値観。能力の差が絶対だ。
学園都市一のエリート校、その傾向は顕著だろう。
きっと、自分は外れる。
透は己と光の才能の差を理解していた。
長点上機学園に入れば、その差がますます浮き彫りになるであろうことも。
怖かった。外れることが。
長点上機へ行かない。光と別れて、長点上機には入学しない。
学園都市において、学生は学校付属の寮への入寮が義務付けられる。
エリート校であるほどその傾向は顕著だ。
寮に入らずとも、学園都市の住人は必ず学園都市内に住居を設けることになっている。
長点上機に条件を付けられる光のことだ。
別に住居を用意出来るかもしれない。けれど、それは"If"の話。
基本的には学校が違えば住居も違う。
長点上機だけではない。透が通う学校にも話を通さなければならないのだ。
この選択は、二人の生活を分けることになる。
透は身の丈にあった普通の学校へ。光は長点上機へ。
環境は人を変える。環境で人は変わる。透と光は、やがて、変わっていく。
怖かった。光に置いていかれることが。
――やがて、決断の時は訪れる。
透が長点上機学園に入学を決めたとき、光はひどく安心した顔をした。
彼も自分と離れるのが怖かったのだ。
そう思うと、笑いがこみ上げてきた。
これで正しかったのだ。透はそう思った。
長点上機学園。
結論から言うなら、透が危惧していたような事態は起こらなかった。
勿論優秀な能力者である光の影響もあるだろう。
しかし、長点上機学園の特色自体が影響していると思しきところも多々あった。
長点上機学園の生徒は、今まで透が接してきた同年代の少年少女に比して、淡白な関係を築いていた。
深く踏み込まない。
透は踏み込むのも踏み込まれるのも苦手なほうだったから、この気質は肌に合った。
そして、欠席する生徒が多い。いや、それだけではない。やたらクラスが多い。
教室の中に机がたった一つ、ぽつんとあるようなクラスが平然と存在する。
透は5組までしか見たことがないが、実際は数十組とも言われ、正確な数は誰も把握していないらしい。
能力開発ナンバーワンを謳うだけあって、透の能力は随分向上したような気がする。
ただ、長点上機学園の生徒は透が思う以上に優秀だった。
実用的というか、本格的というか。
透には表現がうまく思い浮かばなかったが、長点上機学園の生徒は総じて能力の使用法が、巧いのだ。
自分の能力をよく理解し、応用力に長けている。
要するに、透の理解の及ばない領域にいる、それだけは確かだった。
「あーーーーーやめやめやめ!」
乱暴に缶ケースを閉め、ベッドの下に放り込む。
手に取る携帯電話の画面には、新規メール作成の文字。
その下には今日ひとつ増えたアドレスが表示されている。
かなり悩んだ末に、透は短い文章を送った。
テーブルに携帯を置き、ポータブルプレイヤーを手にしながらも何度も携帯に視線を向ける姿は、かなり不審だ。
やがてやってきた返信内容に、透は思わず顔を緩ませる。
絹旗最愛は、あれで顔文字を使う人間であったらしい。
夏の夜は更けて行く。
橋場透は、どう見ても普通の高校生だった。
少なくとも彼自身は、そのつもりだ。
*
路地裏は薄暗い場所だ。深夜ともなれば尚更その暗さは増す。
基本的には静かな場所なのだ。しかし、くぐもった喧騒が似合う場所でもあった。
今も、その暗さに似合わぬ怒号や悲鳴を何度か炸裂させ、再び静かになった。
白い。闇の中にぽっかりと浮かび上がる白。
白い髪の毛に、白い肌。上から下まで黒で統一されたスタイル。
その少年の周りに、無数の少年達が転がっている。
白い少年はまったく歩みを鈍らせることなく、障害物を踏み越えていく。
まるで何事もなかったように。
「一方通行」
そう。それがこの白い少年の名前。
学園最強のレベル5、それこそが彼の称号だった。
ついこの間までは。
「おい。ぶつかるって。おい。一方通行!」
「ぁン?」
掛けられた声に気がついた、というよりは障害物に気がついた、というべきか。
一方通行は顔を上げる。何やら考え事でもしていたらしい。
面倒臭そうに相手を一瞥した彼は、興味なさげに視線を外す。
「ウザってェな。邪魔すンな。すぐに済むからさっさとかかってきやがれ」
「っておーい。その他有象無象と同じ扱いかよこの野郎」
「あァ? 誰だよテメェ。クソどもは腐るほどいンだ。イチイチ羽蟲を覚えてられッかステレオタイプ。オラさッさとスマせるかチビッてンならそこどけや」
「あーあーあー、相変わらずムカツくなテメーは。ぶっ殺してやりてー」
キリキリと緊張感が増す。
しかし苛立つ意識を少年――橋場光は、なんとか抑え付けた。
「……が、今日は遊びに来たんじゃねーんだわ一通ちゃん。お前、随分やさしくなったじゃねーか」
「あァ? 誰が一通ちゃんだコラ。……テメェ」
「お、思い出したか? やっぱこれ効くんだな」
にやにやと笑いかける光に、一方通行は苛立たしげに舌打ちする。
彼のことを"一通ちゃん"などと呼ぶ命知らずは、光くらいだからだ。
「随分とまァ久し振りに顔出したじゃねェか光ちゃんよォ? おッ死ンだもンだとばかり思ってたぜェ?」
「ばーか。俺が死ぬようなタマかよ。お前もよく知ってるだろ?」
「けッ。ンで何の用だよ。まァた殺されに来たッてのかァ? この変態野郎がよォ」
「出来もしねーこと言うんじゃねえよ。お前じゃ俺は殺せない。知ってるだろ?」
「あァ? ナマこいてンじゃねェぞコラ。試してやろォかァ?」
ぱん、と乾いた音を立てて光の身体が壁にめり込む。
軋んだ音とともに、骨が砕けるような鈍い音が響く。
べきごきべき。眉を顰めたくなるような嫌な音。
「おー、ストップ。ストーップ。今日はやりにきたんじゃねーっつったろうが」
壁に身体をめり込ませたまま、光は平然と言葉を返す。
強がっているのか痛みを感じていないのか、多少の強張りはあるものの表情にさしたる変化はない。
その姿に、一方通行はつまらなそうに能力をカットした。光の身体が地面に倒れ込む。
「ッ、おー、いてえいてえ」
「ちッとも痛そうじゃねェツラでこいてンじゃねェよ」
「痛いぜ? マジいてーよ。ただ、慣れだよな、こーゆーのはよ。つか今のナニ? 新技?」
何もしていないのに、何もなかったはずなのに、身体が弾き飛ばされ押し潰された。
一方通行の能力はベクトル変換。あらゆるモノの向きを操る能力である。
彼はかなりマルチな能力を持つが、昔はこんな芸当は出来なかったはずだ。
少なくとも、光は使われた記憶がない。
「けッ。なーンで俺が自分のタネ明かしなンてしてやンなきゃなンないンですかァ?」
面白くなさそうに舌打ちする一方通行に、光はひゅうと口を鳴らす。
「ふーん……やっぱ変わったな、お前。敗けたってーのはデマじゃなかったのか」
光の記憶の中の一方通行は、自分の手札に頓着しなかった。
何故なら彼の能力は、誰にも防げないものだからだ。
尋常でない強力さと理不尽さ、非常識さ。
その全てを兼ね備えているのが、一方通行の能力だ。
「はン。てめェもそのクチかよ。嘲いにでも来たンですかァ?」
口元を歪める一方通行。
その表情にあるのは自嘲の笑みか、それとも。
「……だとしたら、どうする?」
挑発的に、侮るように。光はそう言い放った。
あっさり前言を覆す。気が長いほうでもないらしい。
空気が凍る。
今この路地裏は、世界有数の魔窟と化した。
数瞬の睨み合い。
どちらも歪な笑みを浮かべて。
「は、やめたやァめたァ。いっくら嬲ったって応えねェヤツなンざいたぶっても面白くねェし」
先に気配を緩めたのは、一方通行だった。
「何だよ一方通行、らしくねーな? 目障りなクソは全部ぶっ潰すのが流儀じゃねーの?」
光の知る一方通行は少なくとも、歯向かう相手に容赦をするような人格ではなかったはずだ。
転がってる少年連中にもまだ息がある。それこそ異常事態である。
一方通行はだるそうに小指で耳をかき、光の横を通り過ぎる。
光も、今度は止めなかった。
からころ、とコンビニの袋の中で缶が鳴る。
「あァ……アイツは俺のエモノだ。手ェ出したらブッ殺す」
足を止めた一方通行は、振り返らないまま言い放った。
光は面白そうに喉を鳴らす。
「へぇ。誰だよ、お前に勝ったとか言うバカは」
問いには、数瞬の逡巡。
そして一方通行は、光の予想もつかない言葉を返した。
「そいやァ名前しンねェなァ」
*
―行間1
第七学区のとある繁華街。
夏休みにも拘らず制服姿の二人の少女が、木陰で涼をとっていた。
二人の制服はそれぞれ違うものの、盾をモチーフとした腕章をつけていることで共通している。
風紀委員、と呼ばれる、警備員と並ぶ学園都市の治安維持部隊だ。
風紀委員は主に校内の、警備員は校外の治安維持を担当している。
生徒で構成された風紀委員より、教師で構成された警備員のほうが任される事件も重い。
「あああああお姉さま分が不足してますわぁ〜〜」
ぐんにゃりと身体をベンチに投げ出す白井黒子白井黒子に、初春飾利は苦笑した。
昨今では少なくなった白井のチャームポイント、ツインテールも心なしか萎れて見える。
名立たるお嬢様学校である常盤台中学校の生徒といえど、その実態はこんなものである。
「そんなこと言って。まだ御坂さんが"外"に行ってから三日も経ってませんよ」
正確には二日である。
白井の"お姉さま"こと御坂美琴は、その二日前から学園都市外の実家へと戻っていた。
それこそ急に決まった話のようで、複雑な、それでいて何かすっとした表情で帰省する美琴を、白井は文字通り涙ながらに見送ったのだった。
(その時の様子を白井はそれはそれはスペクタルドラマ風に語って聞かせた)
「ああああお姉さまお姉さまお姉さまぁああああんああんああん」
ぐねんぐねんと奇妙な動きをする白井に、初春は冷や汗を流す。
御坂美琴は夏休み終了前には戻るだろうとのこと。それまで最長一週間近く。
白井は一体どうなってしまうのか。呆れる初春を誰が責めることが出来るだろう。
「あ。白井さん、そろそろ休憩終了です。交代に入らないと」
時計を見て告げる初春に、白井はやれやれと肩を竦めた。
「はーあ。やってられませんわー。交通整理なんて、本来風紀委員の仕事じゃありませんわよ。まったくどこの馬鹿ですの? 操車場で騒ぎを起こすなんて」
先日起こった爆発騒ぎ。
そのせいで学園都市の電車網は大打撃を被った。
警備員は現場の整理と内外の警戒へ、風紀委員は圧倒的に増えた交通量やその整理への対応。
労働量がばかにならない。
最近、学園都市内で妙に事件や事故が増えていて、頭の痛い限りだ。
「世間では事故ってことになってるみたいですけどねー」
「なってる? 初春、あなた何か知ってますの?」
思わせぶりな初春に、白井は胡散臭げな目を向けた。
初春の頭の花飾り(飾りすぎて頭が花瓶のようになっている)が、さわさわと揺れる。
「なんでもですね、あそこで騒ぎを起こしたのは一方通行さんらしくて」
「はぁ? 一方通行って……あの、レベル5の?」
一方通行。学園都市最強のレベル5。
白井のお姉さまこと御坂美琴は同じレベル5でも第三位。つまり、彼女より上の能力者だ。
あまりほかの能力者に頓着しない白井でも、それくらいは知っていた。
「そうそう。その一方通行さんです。その人と誰かの起こしたケンカが今回の原因みたいで」
「……ふぅん」
初春は能力のレベルこそ大したものではないが、その情報収集能力においては白井も一目置いている。
それにしても操車場を巻き込んだ爆発や停電騒ぎ、一体どれだけ派手なケンカをしたのやら。
はた迷惑な話であった。
「にしても誰なんでしょうね。学園都市最強に勝っちゃうなんて」
「は?」
「そんな噂が流れてるんですよ。ケンカは一方通行さんの負けで終わったって」
「……また初春はそんなデマを真に受けて」
「デ、デマじゃないですよぅ! 噂じゃみんなそう言って……」
「噂は噂ですの。そういう情報にはソースを提示するのが基本ですのよ」
「なっ。ほ、本当ですよ!? 統括理事会が率先して情報を封鎖してるくらいで――」
(まさか、ね)
涙目の初春をあしらいながら、白井はポケットに入れたままになっているゲームのコインを思い浮かべた。
コインは、現場の操車場で拾ったものだ。
御坂美琴が超電磁砲を使う際に好んで使用しているものと、同じものだった。
「あ、白井さん、Bennys近辺で傷害、乱闘だそうです!」
「あーもうこのくそ忙しいときにどこのバカですの!? 初春、先に行ってますからダッシュで追いかけてきなさい」
「交代はいいので先にそっちの処理を……ってああん、待ってくださいよぉ」
空間移動であっという間に現場に向かってしまった白井を、初春は情けなく追いかける。
彼女の花飾りは、まるで関せずふわふわと揺れていた。
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